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2005年11月29日

60年目の亡霊


旧軍戦車出土時。2004年11月24日撮影


掘り出し後の現場。2005年11月24日撮影


背後の土手上に移されたチハ車の遺骸全貌。2005年11月24日撮影


 幾つもの激しい台風が吹き荒れたあとの昨年11月24日、神奈川県三浦市のとある海岸に忽然と姿を現わした旧帝国陸軍戦車の残骸の現地調査を行なった。それはまさに波打ち際の砂丘から出土したもので、恐らくは永年の海風と波の侵蝕、そして立て続けに襲った台風の猛威により土砂が崩れ、地中より現れたものと思われた。もはや往時の威容をとどめぬ赤錆た鉄の塊に過ぎなかったが、それでも虚ろに空を睨む砲口が、かつて国を守らんとした武士の気概を伝えていた。恐らくは終戦直後の武装解除により廃棄処分されたものなのだろう。車体は裏返っており、前部が露出し後半部は埋もれたままであった。しかし操縦席直前部分で溶断されており、戦車の全景は留めておらぬ様子であった。だがそのおかげで錆と土塊で化石のようになったトランスミッションと折れた操縦レバーなどがつぶさに見てとれる。土中からは短砲身の57mm主砲が突き出しており、ターレットの一部も露出していた。もしや土中には完全な形で砲塔が残っているやもしれぬ、と期待はいや増す。キャタピラ(これは特定メーカーの商標なので、履帯もしくは無限軌道と呼ぶべきか)は当時、貴重な鉄材資源として取り外されたので当然のことながら残っていない。転輪と補助転輪の幾つかが姿を現わしていたが、驚くべきことは転輪のゴム部分がさしたる劣化の様子もなくほぼ完全な状態で残っていたことだ。土中に埋まっていたことが幸いし、経年劣化を最低限に留めたせいなのだろう。ヒビや崩れも比較的少なく、生ゴムの黒々とした質感が残り、表面に刻まれた明治ゴム製造所、明治タイヤー、TRADE MARK、菱形内にMのロゴ、200×85(補助転輪)の刻印も明瞭に読み取ることが出来た。この露出している部分以外、土中には何が隠されているのだろうか。掘り返して見てみたい誘惑には大いにかられたが、軽率な興味本意でそんなことはすべきではないだろうと現状保存に努めた。
 さて、旧帝国陸軍戦車であることは一目瞭然であるのだが、この車輌は何であるのか。先ずはその疑問が頭をよぎる。転輪や見える範囲での車体の形状からして97式中戦車/チハ車と見るのが妥当と思われた。だが、チハにしては車体が小さいような気がしないでもない。靖國神社の遊就館に展示されているチハと比較すると、心なしかやはり小さく思えてならないのだ。これは他の軽戦車かもしれんね、などと話し合ってはみたものの、現状からは明確な答えは出なかった。
 それからちょうど1年後の今年の11月24日、再度現場を訪れた。と云うのもその1週間ほど前の11月18日、某戦争博物館が神奈川県の認可を取り付け、引き取りの為に掘り出したと聞いたからである。現場は正直なところ悲惨な結果となっていた。2.5tのパワーショベルで強引に掘り出したらしく、車体は更に新たに溶断されて、裏手の土手の上に積み上げられて放置されていた。ブルーシートくらいはかかっているかと思ったが、全くの野ざらしのままで、簡単な囲いと「立入禁止 土地所有者」と書かれた立て札が立てられているのみである。やはり想像どおり砲塔は完全な姿で残っており、主砲の薬室部分も原型は留めていた。車長ハッチは開放されたまま固着している。操縦席のハッチが開いていたり、恐らく前照灯の配線であろう緑青に覆われた被覆線も残っている。車体後半の完全な姿を期待していたのだが、やはりそれは杞憂であった。どうやら廃棄する際に車体前後を溶断して3分割にしてしまったらしい。当然エンジンらしきものも残されてはいない。ただドライブシャフトに残されていたユニバーサルジョイントが今も作動機能していたことには驚かされた。
 さて、掘り出された結果、完全に鉄屑と化してしまったこの戦車であるが、そのおかげで多少の計測をすることが出来た。車体の全幅はどちら側も完全な姿で残されていた起動輪(形状は97式/チハのものであることが出土の結果確認出来た)で計るしか術はないが、およそ2,250mmであった。公式データ上ではより大きい数値になるであろうから、89式や98式、95式などとは明らかに異なる。車体装甲版の厚みも側面が25mm程度、車体上面が12mm程度、底板が8.5mm程度なので、やはりチハ車の数値に近い。ちなみに主砲は短砲身で口径57mmのようだ。やはり97式中戦車/チハ車と推定するのが最も正しいように思われた。しかし、このスクラップを引き取った(…)某戦争博物館によれば現在鋭意精査中とのことだったが、89式中戦車ではないかと仮定しているそうである。しかし、やはりチハ車と見るのが正しいようである。
 戦争の遺物であるので靖國神社もサーチはしたらしいが、状態が余りに酷く、また英霊の住処でもないので具体的なアクションは起こさなかったようだ。地元の伝聞ではこの付近は旧軍の武器弾薬を海中投機、焼却廃棄などにより多数廃棄処分した場所らしく、現在でも不発弾に注意の立て看板が掲げられている。
 また地元の方に伺うと戦後に戦車や高射砲が複数、土中に埋められて廃棄されたと云う話が伝わっていて、この近辺を掘ると他にも戦車が出土するのではないかと噂されているようだ。敗戦から既に60年もの歳月が流れた今、突如亡霊のように出現した戦争の遺物は、平和惚けした現在の我々に何を語りかけようとしたのだろうか。

半世紀の眠りから覚醒したる鉄牛
されど往時の威容既に失せし
ただ鉄隗と化した姿を晒すのみ
無惨なるかな時の移ろい
哀れなるかな愛国の憂い
ただ黙して合掌

註:現状保存の為、これまでも正確な場所の記述は自粛してきましたが、現在では所有者が居り、併せて未だ現地からの引き上げがなされていない為、今回も現地を特定する記述は避けました。

投稿者 平野克巳 : 2005年11月29日 23:33

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