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2009年1月アーカイブ

モデルカーズ的こころ(57)

 今だから話そう…恐らくボクは近代日本で最初にお下げ髪にした男である。これはあながち嘘でもない。糸井重里氏と交遊のあったボクは、彼の髪型を真似て長髪お下げにしたからだ。また彼と共にショルダーバッグを用いた最初の日本男児でもあったかもしれぬ。未だ糸井氏が無名のコピーライターで、青山のセントラルアパートの一室にあったサムシングという広告代理店に勤めていた頃の話である。本題に入ろう(苦笑)…企画室NEKOは正式に会社組織として発足することとなった。ボクは同社の社員第一号となった訳だ。ほぼ同時に絵描きでデザインなども手掛けていた「うさやん」という女性も入社した。名前のふさこが訛ってうさやんになったのだと記憶する。神戸出身で関西弁を話した。しかし女性というだけで慣れぬ経理を任されて、しょっちゅう泣いていた。編集をやりたかった筈の彼女には暫くは可哀想な環境が続いた。彼女もとうにNEKOから離れてしまったが、気のおけない友人であり苦しい時代を共に戦った良き戦友であった。
 暫くはボクも電車通勤をした。バスで大船まで出、東海道線か横須賀線で横浜へ、そこから東横線で自由が丘へ、更に田園都市線(現大井町線)で二子玉川、新玉川線で用賀へと至る。帰宅時は大船発の最終バスにはまず間に合わないので北鎌倉まで行き、そこから徒歩で山道を30分余りも歩いた。当時の北鎌倉界隈は夜になると鼻をつままれるまで分からぬほどに漆黒の闇であった。数ヶ月はそうして通勤したが、余りに大変なので東京へ出る決心をした。そうして世田谷区上野毛での一人暮らしが始まった。6畳一間、風呂無し、トイレはお隣りと共用の木賃アパートだった。家賃は3万4千円、これ以上安い物件が世田谷近辺には無かった。しかし東急上野毛駅の真上で、窓を開けると眼下に上野毛駅のホームが望め、便利であることはこの上なかった。あるのは炬燵と扇風機とファンシーケース、そして電気ポットだけだった。食費は極力袋入りのインスタントラーメンで節約に勤めた。駅前ラーメン店の月一回ラーメン半額の日だけ、ラーメンと餃子の豪勢なディナーを採った。時には銭湯の帰りに焼き鳥屋で日本酒1合と焼き鳥5本の贅沢もした。アパートを出たところにはレコード店が、そのはす向かいにはワイルドボアという玩具店があった。ワイルドボアにはオーロラのプラモデルが常に在庫されており、羨望の眼差しで眺めたものだ。あの頃がボクのささやかな社会人としての第一歩であった。(続く)

中西先生への最後の手紙

昭和を代表する挿絵画家のひとりである中西立太画伯が1月11日に急逝された。享年74歳、人の生は誰もが何時かは死をもって終えねばならぬのが宿命とはいえ、74歳は余りにも早過ぎる。謹んで先生のご冥福をお祈りしたい。


◎全ての画像転載禁止


 先生、いきなり居なくなってしまうのはあんまりです。残される者に心の準備もさせていただけず、今は胸にぽっかりと空洞があいたようで寂しいばかりですよ。遠慮して清瀬駅前の喫茶店に居ます、とお伝えすると、わざわざ出向いて下さり「オレのウチに行こうよ」といつも言って下さいました。いつでも自分のことより周りにばかり気遣いされていましたね。そんな先生にボクは随分と甘えてしまいました。ボクなど口をきくのも憚られるような大御所の方との交渉に二の足を踏んでいると「オレが言って頼んでやるよ」と仲立ちをして下さったり、人選が難航する原稿に悩んでいると「オレが書いてやるよ」と快く引き受けて下さいました。それでいて押し付けがましさや恩着せがましさは微塵もなく、ただ飄々と笑っていらした。いつも相手のことばかり心配して下さいました。
 立太(りった)さんのお名前に「変な名前だろ。本名なんだよ」と相好を崩された時の笑顔が忘れられません。先生との僅かな時間はいつも楽しいばかりでしたが、ボクにはふたつの心に残るエピソードがあります。ポートレート写真をお願いしたときのことです。大作を背景にしたいと申すと、奥様に画台になれと仰った。居間のテーブルの上に奥様が昇り、四つん這いになって身体で絵を支えて下さった。申し訳なさに冷や汗が出ました。でも、その絵の上から奥様の指が「にゅっ」とピースサイン。奥様もとても「お茶目」でいらした。今ひとつはプラモデルのパッケージの逸話。相原模型1/40駅馬車を描かれたときの思い出話です。中西先生にオファーがあったとき「高荷が忙しくて断った。そこでオレのところに頼みに来た。つまり高荷の絵が欲しかったんだろ。だからオレは高荷に似せて描いたんだよ」とこともなげに笑われました。中西立太と言えば少年雑誌の口絵時代から押しも押されもしない大御所の絵師のおひとり。それでもご自身のプライドよりも相手の身になった気遣いをされた。先生は本当にそうした優しい方でした。
 高荷画伯とは対極をなすような清廉な筆さばきがボクは好きでした。中でもニチモ1/48グラマンTBF1アヴェンジャーのボックスアートが大好きでした。少年時代から慣れ親しみ憧れた先生にお近付きになれたことは、ボクの生涯における財産のひとつです。もう「オレのウチに来いよ」とは言っていただけないのですね。また伺うのが楽しみな場所をひとつ失ってしまいました。未だお休み下さいとは言いたくありません。空の上で小松崎先生と好きな絵を思う存分描き続けて下さい。(続く)



①若き日の中西夫妻。このおふたりの間にある空気感は最後まで同じだったように思う。
中西家所蔵


②先に描かれた高荷義之画伯による相原1/40駅馬車のボックスアート。


③中西立太画伯の手になるリニューアル版ボックスアート。画自体の構図もさることながら、馬の筋肉の躍動感など敢えて高荷タッチに似せたのだという。

モデルカーズ的こころ(56)

 今だから話そう…府中の三億円強奪事件の犯人は私である。嘘である。札番号が公表されている五百円札200枚を燃したとしても、あれだけの金が懐に転がり込んだのなら、こんな「あんぽんたん」な40年を過ごしている訳がない…。NEKO PUB.CO.草創期の話だ。かつてボクは熱烈なカーグラフィックの愛読者だった。その広告にスカイラインGT-Rの書籍広告が載った。早速通販でその本を買い、感動の余り長文の手紙を書いた。それが現在、社長であるS氏の目にとまり、一緒にやらぬかと誘われた。それがNEKOとボクとの出会いの最初であった。未だ当時は企画室ネコと名乗っていた。正式な出版社という訳でもなく、世田谷区用賀の小さなマンションの一室で細々と本作りをしていた。当時、用賀は玉電が廃止され、新玉川線(当初は渋谷~二子玉川園間の折返運転)も開通前で、都心からのアクセスは渋谷からバスという、東京の孤島のごとき都内とも思えぬ辺鄙な場所であった。用賀のマンションには卓袱台のような座卓がひとつ、ぽつねんと置かれ、その頭上には裸電灯が寂しく点っていた。GT-Rの販売方は現金書留で、その整理の為に女性がひとり座卓に向かっていたのを記憶している。
 暫くはボランティアというか遊び半分で参加した。何か用件が発生すると電話で呼び出された。一力のカツ弁喰わしてやるからさあ、が殺し文句だった。一人前500円のカツ弁当で働いた訳だ。ボクはその都度、鎌倉の自宅からカローラLBで用賀まで馳せ参じた。世田谷界隈はコンビニもなく夜半には信じられないほどにひと気もなく真っ暗になってしまう。そうした時間に起きて活動している、それが高揚感をもたらし楽しかった。そんな長閑な時代であった。
 当時、S社長は某旅行会社の勤め人だった。編集長I氏は大学院生だった。つまり企画室NEKOはあくまでも余暇の私的活動の範疇であった訳だ。NEKOの名前の由来をよく尋ねられたが、諸説色々あって定かではない。だが単に猫が好きだったから、というのが案外本当のところらしい。実際、初期のブランドロゴマークは猫のシルエットであったことを、古い読者ならご記憶のことであろう。私以外にも硝子屋のナベさん、トヨタの大沢ちゃん、学生のゆーちゃんなど、S氏やI氏の交遊関係で幾人かの人々が出入りしていた。混沌としていたが情熱だけは有り余るほどあった。S社長とI氏のふたりによって設立された企画室NEKOは、日本の自動車雑誌、書籍を自分たちの手で大きく変革させるのだという大志に燃えていた。(続く)

プロフィール

平野克己(ひらの・かつみ)

MC誌の最前線を長うお准将に託し現在はフリーランスの予備役として活動中。湘南鎌倉で猫的スローライフを提唱しつつ、国産プラモデル史の編纂に尽力する日々を送る。永年飼ったコブラ427S/Cを手放しMC(Motorcycle…Modelcarsではありませぬ)復帰を密かに目論む。自称昭和プラモ小僧の60歳。座右の銘は心情溢るゝ軽薄さ。

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