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2009年2月アーカイブ

モデルカーズ的こころ(61)

 今だから話そう…ボクの海外取材の中で一番回数の多かったのはモンテレーのラグナセカ・クラシックカーレースのリポートであったろう。そこではプレス向けに開催期間中切らねば取れないリストバンドの携行が要求される。それにはコース内でのあらゆる事故に自らの責務が負わされる旨が書かれている。On Your Riskということである。つまり「君もしくは君のメンバーが捕らえられ(誰に?)あるいは殺されても当局は一切関知しないのでそのつもりで」ボヨヨヨン…という訳だ。実際、危険な目には幾度が遭った。例えば観覧席裏の移動スタンド売店で買ったハンバーガーの肉が生焼けで腹下しを起こしたり…そーでねーって。ラグナセカと言えば「コークスクリュー」が最大の名所であるが、ここはコース上で最も高い場所からコーナーを抜けると一気に、まさに「真っ逆さま」と言った感じで駆け下るコーナーである。ここいらには一般の観客は入れず、ボクたちプレスのみである。何しろ見るからに危険だ。ガードレールの外にエスケープゾーンはなく、直ぐに雑木林のような下り斜面になっていて、咄嗟の逃げ場などない。だが、ここでリポートせずして、ここで写真を撮らずして、何がラグナセカか…若気の至り、ではない。今でもそう思う。そして、ボクの目の前でフロントエンジンのフォーミュラ(フェラーリの何かだったと思うがもう忘れてしまった)がスピンしたのだ。ガードレール直撃であった。そして、そのガードレールの直後の足場の悪い場所にボクは立っていた。まさに2mとは離れていなかったのではなかったろうか。それでも不思議と怖いとは思わなかった。それほどレーシングカーが好きで好きでたまらなかった。あそこでボクが死んでも誰も保証などしてはくれない。そうした現場でボクは働いていた。好きで働いていた。だが、あの頃は生命保険などかけてはいなかったから、万一の場合は幼い子供たちを抱えて妻は路頭に迷ったろう。しかし、そんな想像力さえボクの思考回路の中には入り込む余地などなかった。オートマチックゆえに音も無く突然ニュッと飛び出して来るシャパラル2D、それとは対照的に派手に腹を擦り火花を散らして飛び込んで来るデニー・ヒュルムのマクラーレンM8D、そこは自らの身の安全など顧みないほどの高揚をもたらす聖地であったのだ。ただ、ひとつ言えるのはボクにはあのコークスクリューをコブラで駆け下るだけの勇気など塵ひとつもない、ということだ。 (続く)

モデルカーズ的こころ(60)

 今だから話そう…グリコ森永事件のキツネ目の男とはボクである。嘘である。本当のところはネコ目の男がボクである。それもまた嘘である。くだらない枕を振ってしまった…。ボクは喰えなかった時代(現在もそうだがそれは置いておく…)、トラックの運転手で生計を立てていた。勤務先は食材の宅配会社で、ボクの仕事は工場から各営業所に宅配セットを1日400から600個ほどを運ぶ仕事であった。ボクの受け持ち車両は三菱キャンター2.75t、ワイドキャブ、長尺ボディで、パワーがあって良いクルマだった。荷下ろし先の営業所は所長以外、主任も配送ドライバーさんも全て女性という「桃園」であった(笑) やがて本部長に気にいられ、加工場工場長として就職しないかと勧められた。ボクが30歳の頃の事である。
 あれから永い年月が過ぎた。あの食材会社も既に無く、本部長の勧めに従わなくて良かった、とも思うが、人生には様々な岐路がある。工場長の座を蹴って(苦笑)ボクは現在の物書きへと身を置いたのだが、一体これまでどれだけの文字を紡いで来たのだろう。ボクの書いた文字は一文字何銭、いや何厘? 何毛? なのだろう。
 この世界、特に物書きという稼業は「先生」と呼ばれるようにならなくては、それだけで生計を立てるのは難しいといわれる。つまり名前でギャランティに付加価値が付くという事である。いずれにしてもボクは文芸モノはやらない(出来ない?…それが真理かもしれぬ…)から先生などという冠とは初めから無縁ではあるのだが、根っから無頼の徒を気取るボクとしては「先生なんぞと呼ばれるようになったらオシマイだぜ~」などと常々ホザいては呵々と笑い飛ばし続けて来た。だが雑文書きという生業は何時まで経ってもまともな暮らしなど出来ない。それはお前の才能と努力が足らんからだろう、と言われればそのとおりかもしれぬ。だが、実情は憲法に保証されている最低限度の生存権さえ実に危ういのだ。それでも必死に書き続けてきた。「真っ当な暮らし」を目指して書き続けてきた。ベースアップなどとは無縁な業界であり、一文字当たりのギャラが上がらぬとなれば、これはもう数頼みである。少しでも多く書く事こそがボクたち下請け、フリーの物書きの財源である。だがしかし…この大不況はただでさえ少ないボクたちの仕事量を更に減らし続けている。大丈夫なのかオレ。生き残れるのか(文字通りの意味である)ねこのや。嗚呼、なんだかボヤキばかりになってしまった。(続く)

モデルカーズ的こころ(59)

 今だから話そう…ボクがライターとして原稿を書き、稿料をいただいた最初は航空情報(酣燈社)であった。トミー1/32 P-51Dマスタングの新製品製作ガイドであったと記憶する。その後、モデルアートで新製品紹介記事や連載記事を書かせていただくようになり、ボクの物書き人生は本格的な幕を開けたのだが、その時点ではこれが生涯の生業となるなどとは夢想だにしていなかった。ちなみにボクの生涯初の著作本はこの頃に書いた「クルマプラモデル学入門」(交通タイムス社刊)であった。その後、既に記したように企画室ネコで働くようになり、ボクは何でもやった。それは言わば見習い修行のようなもので、S社長にしてみれば「コイツは何が出来るのか」を探っていたのであろう。営業、広告、編集など命じられるままに精を出した。勿論、当時は記事の全てが内製であったから、取材、撮影、イラスト、そして原稿製作も全て携わった。今では信じられない事だが、いきなり取材現場でハッセルブラッドを持たされ、ジャガーEタイプを撮らされた。良く言えば現場主義、悪く言えばぶっつけ本番である(笑)
 当時のボクは人生最初の大きな挫折を味わった直後であった。話せば長くなってしまうのでここでは触れないが、毎日アルマイトの灰皿が飛んで来るスパルタ演劇修行から脱落したのである。新宿三丁目の路上で号泣しながら土下座したのも一度や二度ではないので、ちょっとやそっとの事ではめげなかったが、極度の人間不信に陥ってしまい、演劇界から遠のいたばかりであった。そんなボクにとって自信と快活さに溢れていたS社長には親のような兄のような親近感があった。S社長も当時はスタッフが僅かな人員しか居なかったせいか、それとも無謀とも思われる戦いに挑む戦友と捕らえていたせいか、ボクたちスタッフには社員として以上に目をかけてくれた。
 ボクたちはめいめいが自分のクルマで出社していた。当然路駐も多かった訳だ。ある日、ボクは駐禁をとられ玉川警察へ出頭した。ボクがいかにも頼りなく思えたのか、それとも責任者として使命感を感じたのか、S社長が同行してくれた。だが次第に激昂したS社長は30分以上も警官を向こうに回して怒鳴り続けた。驚き半分、感動半分であった。ボクの人生でこれほどまでに親身になり本気になってくれた人は初めてだった。その時、ボクはこの人の為に生涯尽くそう、そして決してこの人を裏切るまい、と心に誓った。三文人情劇場のようだが、基本ボクはそうした単純な男である。また同時に決してこの人を敵に回してはならない、とも思った。あれからもはや30年以上もの年月が過ぎた。仕事の上では色々な紆余曲折があったが、今でもボクのS社長に対する個人的な思いはあの時と何も変わってはいない。(続く)

プロフィール

平野克己(ひらの・かつみ)

MC誌の最前線を長うお准将に託し現在はフリーランスの予備役として活動中。湘南鎌倉で猫的スローライフを提唱しつつ、国産プラモデル史の編纂に尽力する日々を送る。永年飼ったコブラ427S/Cを手放しMC(Motorcycle…Modelcarsではありませぬ)復帰を密かに目論む。自称昭和プラモ小僧の60歳。座右の銘は心情溢るゝ軽薄さ。

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