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2011年1月アーカイブ

昭和のプラモ歳時記「プラモ小僧走る」其の5

 プラスチックは戦後になって本格的に各分野に普及し始めた新素材であった。ひとくちにプラスチックと言っても幾種類もの樹脂素材があるが、プラモデルの材料として用いられるその殆どはポリスチレン樹脂である。ボクたちの世代ではドイツ語読みのスチロール樹脂のほうが馴染みがあるかもしれない。このスチレン樹脂を材料とする射出成形/インジェクション製法が国内にもたらされると、プラスチックの未来に大きな可能性を求める起業家たちの耳目を集めるところとなった。この科学の匂いをたっぷりと含んだ新素材プラスチックには、未来に向けた新時代の予感がした。それまでの旧文化と決別するための最先端技術の象徴のように思われた。敗戦国という暗い過去を払拭し、新生日本を建設するための「心の拠り所」となり「強力な手段」となるような予感がした。実際、プラスチックは時代の寵児となりつつあった。
 プラスチックの出現はそれまでの木や紙、ブリキなどの素材を次第に駆逐し取って変わるところとなり、庶民生活の中にも密接に入り込むようになる。そうしたプラスチック台頭の社会現象のひとつがプラモデルであった。プラモデルとは実は日本製の造語、いわゆる和製英語の類いで、国産プラモデルのパイオニア「マルサン商店」によって生み出された名称である。それゆえにかつてはマルサンの登録商標とされて、同社製品以外はプラモデルとは呼べない時代が続いて業界的には苦慮したが、現在ではプラスチックモデルキットの俗称、略称として広く一般に用いられるようになった。もっともボクたち一般エンドユーザーにそんな業界的事情は関心も関係もなかったから、昔から一貫して「プラモデル」と日常的に呼んでいたことに変わりはない。
 当てくじのトライアンフTR2でも触れたように、駄菓子屋文化の中でもプラスチックの登場により玩具は大きく様変わりしていったのであるが、その象徴がまさにプラモデルであった。この全く新しい形態の玩具はたちまち少年たちの心を魅了し、男の子なら誰もが最も好きな、一番欲しいオモチャの筆頭となったのだった。プラモデルの普及は、こうした小さなキットによって駄菓子屋を舞台として全国に広まっていったのだった。
 プラモデルのムスタングに秒殺された格好のボクだったが、問題はこれが30円するという事実であった。手のひらには10円銅貨1枚。当時の駄菓子屋の店頭で30円はかなり高価な部類で、これまでのように日々の糧で「ケリがつく」ようなモノではなかった。その時点で現実主義者となって翻意して、性懲りも無く「当たりもしないくじ」を引き続けていれば、その後のボクの人生も大きく変わっていたのかもしれない。しかしその時のボクは揺るがぬまでに大きく強固な意志をもって、このムスタングを買うのだと自身に言い聞かせた。それはボクにとっての人生の転換期であった。6歳だったけれど...もちろん、そんなことを当時のボクが知る由もないのだが、このムスタングとの邂逅がボクの人生の全てを決定付けたのである...。時に1960年/昭和35年、夏の盛りのことであった。

昭和のプラモ歳時記「プラモ小僧走る」其の4

 一体どれだけボクはくじを引いただろう。どれだけの金額を当てくじに投資しただろう。たとえ1回5円とはいえ、当時のボクの全財産を投入し続けた。塵も積もればやはり塵の山でしかなく、沢山のはずれ玩具たちはボクの遺恨の残滓に過ぎなかった。一人息子として家庭の中では何不自由なく(余りそうでもなかったが...)思い通りになっていた(これも余りそうでもなかった...)ボクが、世間は家庭とは違って「ボクを特別扱いなどしてくれないのだ」と悟った最初は「決して当たることのない当てくじ」だったのかもしれない。天野屋のおばさんにしても子供だから、とか常連さんだから、などといった優待遇は一切しなかった。駄菓子屋とは母親の庇護から抜け出して社会の厳しさを教わる一里塚みたいなものだったろうか。ボクは6歳にして世間の風の冷たさという洗礼を受けたのだった。
 継続は力なり、人は一歩一歩の積み重ね、そんな人生訓は、この当てくじ通いで培った。その労苦の先に輝かしい結果が待っていなかったとしても、腐らず諦めず地道に進むしかない、それが運も才能も持ち合わせてはいないボクの生きる道だった。そうした信念に突き動かされるようにしてボクは10円のギャンブルに全てを賭け続けた。
 そんなある日、ボクは天野屋の薄暗い土間で新種の玩具に遭遇する。それは、これまで目にしたことのない見慣れぬ箱に入っていた。大きさはちょうど20円のキャラメル箱くらいで、写実的な飛行機の絵と名称が描かれていた。ひと目見た刹那、何故か惹き付けられた。その箱を手に取って開けると、手のひらに小さなビニール袋に詰められたバラバラなものが躍り出た。直ぐに箱の絵に描かれている飛行機の玩具だと判った。バラバラであっても飛行機の姿が脳裏に浮かぶ。何しろ木製模型とは訳が違った。木製模型が木のブロックに過ぎなかったのに対し、既に飛行機の格好をしているのだ。これが胴体、これが主翼、こっちは尾翼、それにこれは主脚のタイヤだ。風防がちゃんと透明になっている。胴体の機首には排気管もあるし、主翼の補助翼もはっきり判る。凄い。バラバラなのにもう出来上がっている。しかもリアルでシャープで本物を彷彿とさせるだけの精密感に充ちている。それにこの感触は何だ。ビニール袋を通しても、つやつやとした表面の滑らかさ、かっちりとした硬質感が手のひらの皮膚に伝わって来る。ボクのボルテージは一気に絶頂へと登り詰めた。感動と興奮、そんな平板な比喩では表せないほどの精神の高揚があった。それがボクとプラモデルの最初の出会いであった。それは昭和35年、暑い夏の盛りのこと──。
 ボクが最初に出会ったのは三共ピーナツシリーズ1/150 F-51Dムスタングであった。小さなキャラメル箱には地平線を背景にして上昇しながらロケット弾を発射するイラストが描かれていた。それは少年雑誌の口絵のような臨場感に溢れた光景で、木製模型の「へっぽこ」ラベルばかりを見慣れたボクにとっては衝撃以外の何物でもなかった。商品価値の成否はパッケージデザインで決まる、の鉄則が、子供向け商品に取り入れられた最初とは言わないまでも、早い段階で着目された好例ではなかったか。何しろプラモデルにはパッケージを重視しなければならない事情があった。肝心要の中身がバラバラなのである。売られている段階では何が何やら判らない体裁をしているので、人によっては壊れた玩具くらいにしか認識ができなかった。なので補足の意味を込めてパッケージのイラストによる説明の必要があった訳だ。草創期の国産プラモデルではバッケージに描かれたボックスアートこそが生命線であり、そのキットのあらゆる要素をアピールするための必須条件であった。いたいけなボクたちはそんなセールステクニックにまんまと絡めとられてしまい、プラモデルの善し悪しを先ずはボックスアートのかっこよさで判断するようになる。そして三共ピーナツのF-51Dはまさしくそうした意味において、ボクの内角直球弩ストライクであった。躍動感に充ちた戦闘機の飛翔、しかもそれが少年雑誌の戦記ブームですっかり洗脳されて「世界最高性能の戦闘機」と信じて疑わぬムスタング(マスタングと呼ぶようになるのは大分後年のことである)なのであるから、ボクの心臓が高鳴らぬ訳がなかった。

昭和のプラモ歳時記「プラモ小僧走る」其の3

 天野屋は若い奥さんが切り盛りしていた。未だ子供が赤ん坊で、店自体も比較的新しかった。間口一間ほどのガラス戸を開けると中は土間で、うっそりとした暗闇の空間には所狭しと駄菓子や駄玩具がまき散らされたように居並んでいる。その時分のボクは福家という屋号のパン屋、菓子屋の倅であった。なので駄菓子には余り執着することもなく、むしろ駄玩具ばかりに夢中していた。ボクが小学校に入学して以降、天野屋に日参する最大の理由は「当てくじ」であった。大きな紙箱に入れ子になって小さな箱が組み合わされて、それぞれに1から二桁の数字がスタンプ印されている。その小さな箱には台紙に針金で止められた自動車や飛行機や船、駅馬車や幌馬車やトロフィーなどの玩具が入っている。そして一番下には小さなはずれの商品が乱雑に詰め込まれている。これらの賞品を狙って数字の書いてあるくじを引く。それが「当てくじ」である。くじは1センチ四方ほどの四角い紙で、薄い裏紙を剥がすと中に数字が印字されていて、その数字の賞品と引き換えてくれる。当然1が最高賞品で順次賞品の格は下がってゆく。初めの頃はアンチモニー製の無骨な玩具ばかりであったが、それでもボクたちにとっては魅力的で、当てたくて毎日祈るような気持ちで当てくじ通いをした。当時は1回5円であったから、ボクは毎日2回当てくじを引いた。だが一桁はおろか二桁さえも当てたことなく、ボクは常に三桁に限りなく近い二桁か三桁の数字ばかりを引いた。つまりはずれである。だから小さなインディアンだの自動車だの列車だの、そんなものばかりが幾つも手元に溜まった。やがて欲しかったモノのところがぽっかりと空き、見知らぬ誰かが当てていったのだな、と遠く思いを馳せ、悔しさ、哀しさ、空しさがない交ぜになった心を抱えて家路を辿った。あれだけ当てくじに執着していながら、その後もボクには一度として当たりの出たためしがなった。無惨なまでにくじ運の悪い子供であった。そして、それは50年をとうに過ぎた現在も変わることがない。
 当てくじのアンチモニー独特のゴツゴツした質感の玩具が、ある日突然に異なるモノになった。それは天野屋の店頭に新たに現れた自動車の当てくじで、1等だったか2等だったかは忘れてしまったが、ドライバーが乗ったアイボリー色のスポーツカーだった。ボディ全体がカッチリと硬質な質感で輝いていて、それまでのアンチモニー製のミニチュアとは比較にならないほどにリアルな雰囲気に充ちていたのだ。これがボクの生涯で初めてのプラスチック製玩具との出会いの瞬間だったろう。今になって振り返ってみれば車種はトライアンフTR2だった。グリルがおちょぼ口だったのでTR3やTR3Aではなかった。大きさもおよそ1/43程度であったので、英ディンキー辺りのダイキャストミニカーのコピーだったのかもしれない。もちろん、この辺りの情報は後年になってからの「後付け知識」で、当時はそんなことなど一切知る由もなかった。それどころか主要マテリアルがプラスチック樹脂に置き換えられたという認識さえボクにはなかった。ただ、それまで天野屋で慣れ親しんでいた自動車玩具とは全く異質な精密感に、ボクはいっぺんに虜となってしまったのだった。
 駄菓子屋の店頭にある駄玩はボール紙や竹、粘土、ゴムなどが未だ未だ幅を利かせていた。しかし当てくじの玩具はアンチモニーから早い時期にプラスチックに変わっていったと記憶する。ボクたちはプラスチック樹脂という新素材を敢えて認識することもなく、ごく自然なうちに受け入れていたのかもしれない。ただ、確実に言えるのはプラスチック玩具の出現によって、当てくじの乗り物玩具の水準は格段に向上し、さらにボクは当てくじに熱くなっていったということだ。ボクの連日の天野屋通いは更に拍車がかかり、来る日も来る日も10円を握り締めては桜並木の下を走る「当てくじ詣での日々」は続いた。

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プロフィール

平野克己(ひらの・かつみ)

MC誌の最前線を長うお准将に託し現在はフリーランスの予備役として活動中。湘南鎌倉で猫的スローライフを提唱しつつ、国産プラモデル史の編纂に尽力する日々を送る。永年飼ったコブラ427S/Cを手放しMC(Motorcycle…Modelcarsではありませぬ)復帰を密かに目論む。自称昭和プラモ小僧の60歳。座右の銘は心情溢るゝ軽薄さ。

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