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2011年2月アーカイブ

昭和のプラモ歳時記「プラモ小僧走る」其の8

 F-51Dムスタングを皮切りに、ボクは三共ピーナツ一辺倒の日々を暫くは送った。三日に1個、一体ボクは三共ピーナツシリーズをいくつ買っては作ったろう。恐らくは30種に充たなかったろう。それでもプラモデルに、三共のピーナツシリーズに、6歳のボクは没頭し全霊を傾けた。当時、玩具は買って遊んで壊れて捨てる、それがごく当たり前なことだった。新たに玩具に加わったプラモデルとてそれは同様で、空中戦などの遊びに興じたあとは飽きてゴミ箱行きなのが普通のことであった。なにしろ初期のプラモデルはアウトドア的な機動性玩具だったのだ。プラモデルが友達と遊ぶ手段でもあり、誰かの家に寄り集まってはその場で作って遊んだ。時には太陽のもと公園のジャングルジムや空き地の土管の上で作った。仮に自分の家の勉強机の上で大切に作ったとしても、次のキットを買う頃には飽きて、壊れて捨てられる運命であった。そうしたごく初期のプラモデルの扱いは、プラモデル自体が現在とは異質な性格と体裁の存在であったことにも起因した。取り合えず価格が安いことは大切な要因のひとつであったろう。プラモデルが駄菓子屋アイテムだったことで、子供たちの間で爆発的に広まっていったのだ。駄菓子屋玩具は基本「使い捨て」であった。また、とても簡単に組み立てられたこと。三共のピーナツシリーズではパーツが出荷時、既にランナーからもぎ取られていた。つまり、ビニール袋を開けたら、そのままパーツを接着剤で貼り付けるだけで完成する。ニッパーで切るだのヤスリで削るだのの工程は全く必要がなかった。また、そうするものだとも知らなかった。手慣れれば5分もあれば完成する。そのインスタント性も子供に受けた。昭和30年代から40年代にかけて、世情では「手早く簡単な」スピート化が文化意識のキーワードとなりつつあり、インスタント時代が流行語のようにして台頭する。その時代感覚は子供の世界にも確実に押し寄せるようになった。少年雑誌が月刊から週刊へと姿を代えたのもその好例であった。プラモデルはまさに子供文化の最先端を行く「時代の寵児」であった。
 しかし、ボクは既に鉄壁の「模型小僧」であった。木製模型を経て来ているだけに模型と玩具の違いの何たるかを心得ていた。嫌味な小学生である。ちゃっちゃとボンドで接着して遊びたおす、なんてことはしなかった。当初からランナーの切り跡が気になった。最初は母の裁縫箱から裁ちバサミを失敬してランナー跡を切り取った。それを母に咎められてからは、父の道具箱の肥後の守で切った。しかし錆びていて使い難いことに気付いてからは、鉛筆を削るために持っているボンナイフ(商品名である。現在のカッターナイフの祖先のようなもの)をもっぱら愛用した。まあ、やることはそれくらいまでである。パーティングラインだのバリだのは、その言葉さえ知らなかった。部品同士を仮組みして擦り合せる、などという「基本にして面倒...」な工程は一切すっ飛ばし、合おうが合うまいが、隙間があろうが傾ごうがお構いなしで、強引に接着剤でぐちゅぐちゅに接着した。三共ピーナツにはちゃんと主脚があったが、ほぼ点着けみたいなものであったから、着けても着けても「みゅい~ん」と脚が傾いでしまうのだった。現代のように瞬間接着剤などという便利なものは未だない。接着剤はキット付属のものを使用するのが通例であった。三共ピーナツには小さなアルミチューブか菱形のアルミパウチが付属していたが、ぐっちゃぐっちゃ豪快に使ってしまうと足りなくなる。学習したボクは母から待ち針を貰い、それを栓にして小出しに大切に使うようになった。当時、近所の文房具屋には黄色いチューブに赤いキャップの接着剤セメダインCが売られていたが、三共ピーナツのキットより高価(とある文献によれば1961年/昭和36年に23ml入りで40円とある)だったので、とてもこんなものを買うだけの余裕などはなかった。ちなみに1960年/昭和35年2月には三和模型がプラセメン(チューブ入り10円)を発売しているのだが、ボクの生活圏では、まして天野屋ではそんなものは一度として見たことがなく、当然、世の中に存在することすら知らなかった。ともかく苦心惨憺するうちに次第に少量を効率よく使えるようになったが、上手いこと余ると後生大事にとっておいた。あの使い捨てのようなキット付属の小さなチューブ入り接着剤が、当時はとても大切で貴重なものとして扱われたのであった。
 水溶性デカールというものも誰しも初体験であったので初めは難儀した。三共ピーナツでは国籍マークくらいしか入っていなかったが、それさえもズルズル動いてしまったり指の先に貼り付いてしまったりで、泣くは叫ぶわの大騒ぎをした。そんな「すったもんだ」の挙げ句に完成した1/150の戦闘機は何とも誇らしいものに思えた。完成した姿にも魅了されたが、「作る」という行為がこれほどにも楽しく面白いものなのだと実感した。ボクは完全にプラモデルの虜となっていた。だが、それから暫くすると欲が出た。そのまま作って満足できたのは最初だけで、やがて全身銀色だけのムスタングや緑一色な零戦に物足りなさを感じ始めたのだ。プロペラは黒いほうが本物らしい。タイヤだってゴムだから黒いだろう。零戦の発動機カウリングが機体色なんてあり得ない。よし、色を塗ろう。当時は模型用塗料など一般には普及していなかった。学校の図工で使う絵の具を塗ってみたが弾いてしまって色がのらない。ならばとマジックインキを使ってみた(マジックインキというのは商品名なのだが当時は油性ペンの総称のように誰もがそう呼んだ) マジックは上手いこと塗れた。タイヤを黒く塗るだけで実に本物っぽくなり立派な仕上がりに見えた。そこで図に乗って隼の胴体、主翼の上面を緑のマジックで塗ってみた。おおっ、いー感じでないの、と思ったのは一瞬だけで、たちまち塗った部分の表面にくしゅくしゅと皺がよった。嗚呼、マジックはプラスチックを溶かすのであるな...と体験学習したボクであった。
 三共ピーナツシリーズによってプラモデルに開眼したボクは、以後、一気呵成にプラモデル道を邁進することとなった。小学生には小学生なりに「人生の潤い」を求めるのだとしたら、ボクにとってのそれはまさにプラモデルであった訳である。

昭和のプラモ歳時記「プラモ小僧走る」其の7

 ムスタングは未だあった。誰かに買われてしまうこともなく天野屋の店頭で無造作に並べられたままだった。「おかえり、君が買いに来てくれるのを待っていたよ」とムスタングのプラモデルが囁いた、などと陳腐な台詞をこの際使う気はない。ただ単に誰も買わなかっただけだ。だが、それはまたある種、幸運なことでもあった。駄菓子屋の店頭ではプラモデルの同じ品がふたつもみっつも置かれていることは稀であったからだ。ひとつ入荷し、それが売れてしまえばそれでおしまい。「また、入れといてあげるよ」などとおばさんは言うけれど、それが現実となったためしはまずなかった。だから見たときに買う、欲しいものならそれが鉄則であった。しかし、30円のプラモデルである。二日間はただひたすら無事であることを祈った。
 ボクはなぜ、三共ピーナツ1/150 F-51Dムスタングに惹かれたのだろう。いや、そもそもプラモデルにひと目惚れしたのは如何なる理由によるものなのだろう。当時の少年たちはオモチャが好きであった。当然である。そして、オモチャと言えば「乗り物」であった。デパートの玩具売り場でも男の子向けはブリキの乗り物、女の子向けには縫いぐるみ、と明確に分類されていたことを覚えている。ボクも人並みにブリキの乗り物の大好きな子供であったのだが、とりわけ自動車を好んだ。飛行機や船や戦車を欲しがった記憶はほとんどない。また近所の文房具屋では木製の模型をよく買った。模型といっても「ざっくりとした形状」に切り抜かれた板にゴムタイヤが付いている程度の大雑把なもので、きれいに削って整形しないと「積み木」のような訳の分からないモノにしかならない。ブリキの自動車も木製模型の自動車もボクを満足させてくれることはなかった。いつもどこかがヘンだったのだ。嘘臭かったのだ。本物はもっとずっとカッコイイのに。つまり実物の再現性に不満があったのである。オモチャなんだから...と無理矢理納得させられているような、子供が馬鹿にされているような、そんな感覚が我慢ならなかった。日頃からそんな鬱憤が溜まりに溜まっていたボクにとって、プラモデルはまさに神の啓示にも等しかった。今にしてみればそれほど大したものではなかったのだが、当時のボクには驚き以外の何物でもなかったのだ。それはカルチャーショックとでも形容すべきものだったかもしれない。小さな箱の、そのまた小さなビニール袋には、飛行機の格好をした部品がバラバラに入っていた。バラバラだけれど飛行機の格好が既に識別でき判断できた。それは凄いことであった。なにせ木製模型など封を切ったところで曖昧な形の木片ばかりで、その部品からは完成後の姿がまるで想像できなかった。対してこの小さな模型はバラバラな状態にも関わらず、その実物の勇姿が容易に見て取れたのだ。部品を見て「カッコイイ」と思ったのは初めてであった。胴体や主翼には色々と筋彫り(凸モールドだけれど...)があって、木製模型の「のっぺらぼうなリアリティの無さ」とは段違いの写実性も感じられた。それに、その質感。ビニール袋の上からでも感じられる硬質でカッチリとした感触、切れ味のいいシャープな形状、全てがこれまで経験したことのない未知なる驚きであった。一度として買っては貰えなかったので悔しくて言うのではないけれど、主翼と胴体をはめ込んでヒンジで固定し、胴体の下の無様なフリクションボックスの車輪で這いずり回るブリキの飛行機なぞ、このプラモデルに相対したら取るに足らないものでしかない。その時のボクの高揚感たるや如何ばかりであったろうか。

昭和のプラモ歳時記「プラモ小僧走る」其の6

 ボクの家は桜並木の下で福家という屋号のお菓子屋屋を営んでいた。父は東京へ務めに出ていたから、純粋に商家という訳ではなく、副業として母が経営していたに過ぎない。そうした意味では戦後の日本で急速に台頭し庶民の中核を成すに至ったサラリーマン家庭の典型であって、決して商人の意識を持った家族ではなかった。その桜並木の下は商店街と呼ぶには商店が疎らで、住宅街の中に商店が点在するというのがより表現としては相応しいものであった。桜並木が続く数百メートルの未舗装路に添って、床屋、文房具屋、雑貨屋、肉屋、八百屋、花屋、銭湯、菓子屋などの個人商店が点在して並んでいた。ちなみにこの時代にはスーパーマーケットという販売形態の概念は未だない。ボクの家の福家も駄菓子屋の天野屋もその個人商店のひとつで、福家と天野屋は走れば5分ほどの距離だった。学校から帰って来ると毎日、10円銅貨を握り締めては天野屋へと走った。行きは「今日こそは」の期待と気概に充ちていて、ボクの走りも力強かったに違いない。砂利道を駆け抜けるその後ろにはうっすらと砂ぼこりがたなびいていたことだろう。しかし帰りのボクの姿は迷子の子犬のようだったかもしれない。小さな玩具ふたつを手のひらに握り、失望のうちにとぼとぼと家路を辿った。商店街といってもその並木道は、あちこちにバラ線を張った空き地や小学生の背丈ほどもある雑草が茂り、民家は点在しているに過ぎなかった。そんな商店街でも街が夕日に染まる時分には、「はい、いらっしゃい、いらっしゃい」の呼び込みが遠く近く響き、買い物篭に割烹着姿のお母さんたちが目立つようになる。一日はとても長く、時間はゆったりと過ぎていた。
 ボクの家の朝はいつもラジオで始まった。ボクの父は東京放送(KRT/現TBS)に務める放送業界人であったので、比較的早い時期からテレビジョンが家には有った。しかしテレビは夜の団らんにかしこまって観るもので、朝や昼はラジオをかけるのが庶民の暮らし向きの日常であった。なのでラジオは通常、台所周辺に置かれていた。当時の主婦は一日の半分以上を台所で過ごしたせいもあったからだろうか。ボクの記憶の中の母も流しに向かう後ろ姿ばかりが思い出される。ニュースや天気予報、首都圏の鉄道状況、そして歌謡曲、どこの家庭でも決まった周波数の決まったラジオ放送局の番組が流れていた。通勤前の家庭からはせわしない雰囲気と共に妙に長閑な流行歌が流れ、時おりは「おーい、いって来るぞー」などの声も響いた。父はカンガルーのフェンダーマスコットが着いた自転車で早々に最寄りの国鉄駅へと向かう。ボクの記憶にある朝の風景はラジオから流れる「今月の歌」井沢八郎の「あゝ上野駅」を聴きながら(ちょうどそういう時間にかち合うのだ)、マルちゃんの即席たぬきそばを食べるという情景なのだが、これは1964年/昭和39年であるから随分とあとのことである。そしてランドラルを背負うと、路地から畑の中のあぜ道へと抜け、雑木林の中の坂道を登り、細い県道を横切って小学校へと登校する。時間にして15分ほど、見渡しても住宅がちらほらとしか望めない里山のような風景であった。下校はたいてい独りきりであった。近所にクラスの友達はひとりも住んではいなかったのだ。だから友達と遊ぶには下校してもまた学校近くまで戻らねばならなかった。おいおい独り遊びの得意な子供になっていった。
 そんなボクの最大の楽しみは1日10円の小遣いを貰っては、駄菓子屋「天野屋」の店先で何か目新しいモノを物色することであった。古新聞紙で作られた袋に入った当てくじを引くと月刊少年誌付録の残りのペーパークラフトだの野球選手や映画スターのブロマイドが入っていた。数字合わせの当てくじでは「ハズレ」ばかりで、何だか良く判らない小さな乗り物の玩具ばかりが「泉屋のクッキーの空き缶」一杯に溜まった。銀玉やびっくりナイフ、潜望鏡やバッチ、そしてどうして遊ぶのかも良く分からぬオモチャなど、ガラクタのような駄玩具を幾つも買っては遊んで捨てた。しかし、プラモデルと出会った日、ボクはそれまでの刹那的な豪遊(?)を一切断ち切った。どうしてもプラモデルが欲しかった。F-51Dムスタングが欲しかった。30円のムスタングを我が手にするには、源泉掛け流しの温泉のごとく、まさに「湯水のように...?」垂れ流していた10円を、二日間にわたってグッと堪えて使わずに我慢することしかなかった。そしてボクの修行僧のような禁欲の日々は始まった。一日目、希望に燃えて崇高な思念を貫く。二日目、早くも砂漠を流浪する民のごとき激しい喉の渇きと飢えが苛む。そして待ちに待った三日目、もはや噴出する思いとどめようもなく、天野屋へ天野屋へと急く気持ち、ただそれ一点。10円銅貨三枚を握り締め、ボクは桜並木の下を鉄腕アトムよりもエイトマンよりも早く駆け抜けて行く。プラモデル目指して、ムスタング目指して、風のように。

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プロフィール

平野克己(ひらの・かつみ)

MC誌の最前線を長うお准将に託し現在はフリーランスの予備役として活動中。湘南鎌倉で猫的スローライフを提唱しつつ、国産プラモデル史の編纂に尽力する日々を送る。永年飼ったコブラ427S/Cを手放しMC(Motorcycle…Modelcarsではありませぬ)復帰を密かに目論む。自称昭和プラモ小僧の60歳。座右の銘は心情溢るゝ軽薄さ。

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