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昭和のプラモ歳時記「プラモ小僧走る―回想―」其の12

 プラモデルと出逢う以前からボクは文房具屋や駄菓子屋の常連だった。当時の子供は皆そうである。ボクの家は「福屋」という屋号の菓子屋を営んでおり、どぶ川を前にした桜並木の商店街の一画にあった。父は戦時中は海軍の軍属で羽振りが良かったらしいが終戦によって失職し、ようやく東宝の美術部の職を得た。しかし1948年/昭和23年の東宝争議により再び職を失った。平野製作所(起業家なのでも洒落なのでもなく、ヒラノポップなどの二輪車メーカー)などを転々としたのち、民放テレビ放送開始の時流に乗ってKRT/ラジオ東京(現TBS/東京放送)に就職、以後、典型的な戦後サラリーマン族を形成するひとりとなった。'50年代は未だサラリーマンが安定した職種と思われなかったので、福屋はあくまでもサイドビジネスとして母が切り盛りしていた訳である。脱線ついでに福屋についても触れておこう。当時、菓子はキャラメルやチューインガムが花形で、キャラメルは6粒10円、ガムは4枚10円だった。グリコは10円で、大きなオマケの付いた大箱は50円。チョコレートは贅沢品で、ボクたちが日常的にチョコと呼んだのは鉛のチューブに入ったソフトチョコである。動物ビスケットや五家宝、餡きりなどの菓子の大半は量り売りで、ステンレスのスコップですくって秤で計量しグラム売りする。これは一斗缶で仕入れるのだが、御徒町の二木の菓子(今では二木ゴルフのほうが有名だろう)まで直接仕入れに行ったり、地域の問屋が配達納品したりした。
 菓子パンも菓子屋の重要な品目で、福屋では第一パンを取り扱っていた。小倉餡、白餡、うぐいす餡、ジャム、クリーム、チョコなどの菓子パンは1個15円、三角の甘食が2個組10円であった。これは第一パンの2tパネルトラックが毎日、明け方に配達してくる。菓子パンの入った木製パレットを店先に無造作に置いてゆくのだが、盗まれたり悪戯されたりすることもなかった。何とも長閑で良い時代である。現在なら薬物を混入される危険性や不衛生を厳しく指摘されて、とてもこんな扱いはできない。なにしろ現在のように袋に入れられてさえいない。裸のまま店先に放置していくのである。それをガラスケースの中に並べて売る。たいがいは午前中に売り切れてしまう。勿論その後の補充はない。売り切れたらまた明日、である。現在のようにコンビニの納品トラックが24時間走り回っている、などという世知辛い風景なぞ皆無であった。夜は人も店鋪も企業も社会も、何もかもが眠って休む。それが社会の当たり前な営みでありルールだった。
 現在のように賑々しく食玩が彩りを添えるような時代ではないので、菓子屋の倅といえども、駄菓子屋や文房具屋にはせっせと通った。橋を渡った川向こうに文房具屋があって、幼稚園児の頃のボクはそこのお馴染みだった。割烹着のおばちゃんひとりが営むような店であっても厳然たる対面販売であったので、社会通念上の礼儀作法がちゃんと存在した。店を訪ねる際には必ず声がけをしなくてはならなかった。いいとこのお嬢ちゃんは「くださいな」、一般的な庶民の子供は「ちょーだいな」と店先で声がけをする。ご近所の嫌われ者の暴れん坊さえ、その時ばかりは「ちょーだーい」と叫んでいた。今では死滅してしまった子供社会ならではの決まりごとが、この時代にはきっちりと守られていた。

プロフィール

平野克己(ひらの・かつみ)

MC誌の最前線を長うお准将に託し現在はフリーランスの予備役として活動中。湘南鎌倉で猫的スローライフを提唱しつつ、国産プラモデル史の編纂に尽力する日々を送る。永年飼ったコブラ427S/Cを手放しMC(Motorcycle…Modelcarsではありませぬ)復帰を密かに目論む。自称昭和プラモ小僧の60歳。座右の銘は心情溢るゝ軽薄さ。

2014年10月

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