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2011年5月アーカイブ

昭和のプラモ歳時記「プラモ小僧走る―回想―」其の14

 ボクにとって最初のプラモデルとなった三共の1/150ピーナツシリーズとの出逢いは衝撃の一語に尽きた。喩えばある日突然、見知らぬ外人がやって来て「ワタシのTVRタスカンを貰ってくれませんか。オプションで空を飛ぶこともできるんですよ」なんて言われるようなものである...いや、それは夢想というか妄想であって、ここでの比喩としては適当ではない...第一、空を飛ぶのはファントム電光石火くらいなものだ...。ともかく、ボク的な常識の範疇を超えるショッキングな出逢いであった訳だ。
 それまでのボクは天野屋で駄玩だけでなく、駄菓子も当然のように消費していた。食紅何号だのチクロだのの怪し気な食品添加物を誰も気にもしていなかった時代なので、駄菓子屋で買い食いした子供たちはべろ(舌のことである)を見れば一目瞭然であった。怪し気な着色料によりべろは無気味な赤や紫、青や黄色に染まって、ご近所の子供たちはあたかも爬虫類のようでもあった。もはや銭の単位の硬貨は流通してはいなかったが、駄菓子屋では2個1円などといった価格体系が当たり前のようにして存在していた。だから10円あれば社長漫遊記もかくありなんのごとき豪遊ができた。日々10円のお小遣いは必要にして充分な代価であった訳である。しかしプラモデルの出現はそんなボクの平和な日常に劇的な変化をもたらした。泣いて喚いて頭をぶんぶん振って懇願してみたところで、与えられる小遣いが増える訳もなく、その日を境にボクの駄菓子屋買い食い人生は終焉を迎えた。30円を必要としていた。それには二日間というもの修行僧のごときストイックな時間を過ごさねばならない。まさに難行苦行であった。桜並木の道すがら、口を山羊のように「くっちゃくっちゃ」動かしている友だちに出くわせばソレがたまらなく食べたかった。不可思議な玩具を自慢げに見せられれば、今すぐ飛んでいって同じモノが欲しかった。だがボクにはプラモデルを買う、という遠大かつ荘厳な使命があった(もはや天命であった) だから耐えた。ひたすら耐えた。そして三日目、溜め込んだマグマを一気に噴出するように、ボクは桜並木の下を天野屋へと走った。
 そこまでして我がものとしたプラモデルも手にしてみれば呆気ない。畳の上に広げたパーツはとても小さく余りにも少ない。箱裏の組立説明図(そんな立派なものではなく、単なるパーツ展開図のようなものだった)を見るまでもなく、胴体に主翼と尾翼を組み合わせ、プロペラ、キャノピー、主脚、時には増槽や魚雷を接着したら、あとはデカールの国籍マークを貼ればできあがり。手慣れればあっという間である。ただ瞬着などなかった時代なので、何度も何度も「ぐにい~」と曲がってゆく主脚との戦いをくり返すのは毎度のことだった...。
 三共のピーナツシリーズはランナーがなかったので、そのまま組み立ててしまうのも可能だったが、やはりランナー跡やバリが気になり出すと、いっぱしにツールも用いるようになった。と言っても精々、母の針箱から失敬した糸切り鋏や父の工具箱から持ち出した肥後の守、あるいは自分の筆箱に常備されたボンナイフくらいのものである。塗装をするなど思いもよらなかったので、全身緑色の零戦や全身銀色の隼などで大いに満足していたのだが、ある時突然閃いた。ちょうどマンガで頭の上に裸電球が光っている、あの感じである。マジックで色を塗ろう。マジックとは商品名だが、当時は誰もがそう呼んでいた。正式名称をマジックインキというフェルトペンのことである。先ず主脚と尾輪のタイヤを黒く縫ってみた。いー感じである。さらにカウリングも黒く塗ってみた。これまたいー感じである。終いには調子に乗って胴体と翼の上面を緑で迷彩してみた。飛燕の斑点迷彩は目を見張らんばかりにグレードアップして見えた。これだ! 上手い! 自画自賛である。そして遂にはカウリングを黒で、上面を緑色で塗り潰した97艦攻が完成する。凄い。自身の仕上がり具合の上達振りにボクは酔った。だが、しかし...気付けば塗ったところは表面がいつの間にか「しぼしぼ」に縮れて、見るも無惨な悲惨な貧相な(連呼するほど自虐的になろうというものだ...)ものとなっていた。この時、初めてプラスチックはマジックの成分で溶けるということを学んだのだった。
 数作にしてすっかりピーナツシリーズを習得した気になったボクは、厚かましくもプラモデルの達人気取りで自信満々となっていた。勘違いである。そして天狗になって調子づき更なる高みを目指した。初めて第二次大戦戦闘機ではなく練習機の「赤とんぼ」93中練に挑戦したのだ。ちょっと単発レシプロ戦闘機に食傷気味になっていたのも事実だった。蜜柑色の機体で目先が変わって見えたし、何よりも複葉機なのが大人っぽいマニア風テイストを感じさせた。だが、いざやってみると砂上の楼閣のようなボクの自信などたちどころに崩れ去った。下翼に翼間支柱を立て、それに上翼を載せる作業が思うに任せない。「みょい~」と斜めに歪んではぼろりとバラけてしまう。何度やっても失敗の連続である。差し込んでいた金色の西日がやがて暮れなずみ、部屋に宵闇が忍び込み始めても、蜜柑色の93中練はいつまで経っても飛行機の形にならなかった。そしてボクはプラモデルで泣いた。初めて泣いた。口惜しくて悲しくて情けなくて、終いにはわんわん声をあげて泣いた。その夜、帰宅した父は卓袱台の上で小いち時間ほど格闘し、ボクの為に赤とんぼを完成させてくれた。未だ父がボクにとってヒーローであった時分のことだった。テレビはあったものの、どこの家庭にも家族団らんがあり、一家が揃って食卓を囲んでいた頃の懐かしい記憶である。

 さて、川向こうの文房具屋でボクは随分と当て籤を引いた。古新聞紙で作られた袋の束が紐で綴じられてぶら下がっている。これを一回5円だか10円で引く。中身は見てのお楽しみだ。たいがいは月刊子供雑誌の付録だったペーパークラフトや無断借用しているに違いない映画スターや歌謡スター、野球選手などのブロマイドだった。籤に飽きると木製組立模型にのめり込んだ。種類は多々あったのだろうが、ボクの興味は自動車や戦車ばかりに向いていた。その体裁はパッケージがなく、ハトロン紙やセロファン紙に包んで売られている。それに「下手ヘタ」な実物の絵が描かれたラベルが貼られている。キットの中身は木版をおおまかな形に切り出したパーツと、ゴムのタイヤや木製プーリーの転輪で構成されている。これを原寸図面に沿って形状を削り出して組み立てる。だが中にはボンネットやルーフは「ボール紙をしごいてわん曲させて作りましょう」などという乱暴なものも多かった。いずれにしても実物とは似ても似つかない「変な乗り物」しかできあがらない。その上、ボクは切ったり削ったりするのを知らず、強烈な刺激臭のする黄色いチューブのセメダインでそのままペタペタと組み合わせてしまうだけなので、トラックだろうがスポーツカーだろうが、いずれも積み木のような自動車もどきが完成するだけだった。だからボクの模型に対する印象は「ブリキ自動車や外国製ミニカー」などとは決して対等視することのできない「駄目な玩具」となって根付いていった。それだけにプラモデルのリアリティには心底驚かされたのだった。なにしろくどいようだがバラバラな状態であるのにも関わらず、実物の姿がそのまま想像できてしまうほどの実感が伴っていたのだ。できあがった姿も木製モデルの「おおまか」な造型と「はんなり」とした質感とは違って、なんともシャープでカチッとしていた。「かちっ!」と音がしたこともある。嘘である。
 やがて川向こうの文房具屋から、新たに開店した天野屋へと足を延ばすようになったボクは、最後の駄玩文化を謳歌する。行司軍配だの竹製の弓矢だのペリスコープだのびっくりナイフだのブリキ製の蝉型パッチンだの、もうこれ以上どうしてくれようと言わんばかりの「ちゃちい」駄玩具三昧の日々を送った。それはそれで楽しい日々だった。だが玩具が大好きなボクはどこか充たされぬ気持ちを抱えていた。何かが違った。ボクが本当に求めているオモチャはもっと別のところにあるのではないか。勿論、当時のボクがそんなことを考えていた訳ではない。漠然とした充たされぬ思い、そして無意識のうちに抱いていたケミカルへの憧れ。ボクはプラモデルと出逢うべくして出逢った。それが運命であったのだ。現在ではそう考えることにしている。

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プロフィール

平野克己(ひらの・かつみ)

MC誌の最前線を長うお准将に託し現在はフリーランスの予備役として活動中。湘南鎌倉で猫的スローライフを提唱しつつ、国産プラモデル史の編纂に尽力する日々を送る。永年飼ったコブラ427S/Cを手放しMC(Motorcycle…Modelcarsではありませぬ)復帰を密かに目論む。自称昭和プラモ小僧の60歳。座右の銘は心情溢るゝ軽薄さ。

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