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2011年6月アーカイブ

昭和のプラモ歳時記「プラモ小僧走る―回想―」 其の16

 天野屋に見慣れぬプラモデルの箱が並んでいた。その水色の小箱はピーナツシリーズより更に小さく、ボックスアートも線画だけという地味なものであった。大きさや形状はちょうどマッチ箱くらいだ。それがマルサンのマッチ箱シリーズを知った最初であった。しばらく品定めしたのち買ってみることを決心した。ピーナツシリーズに比較してモデル自体はやや小振りだったが、パーツの出来映えはさして変わらぬように思えたのだ。しかも20円である。ピーナツシリーズの2/3の値段は魅力だった。その時選んだのは1/200(実際はもっとずっと小さい)シコルスキーS-58だ。何故「おたまじゃくし」のようなヘリコプターを選んだのかは今となっては全くの謎だが、ヘリコプター自体が新鮮に思えたのかもしれなかった。20円でプラモデルを買った! この事実はボクの小さな自尊心をいたく満足させた。桜並木の下を走って帰るボクの手には小さなプラモデルと10円銅貨がしっかりと握られ、自らの意志と力によって人生に正しい選択と決断をした喜びが満面の笑みとなって表れていただろう。だが、この選択はいきなり悲劇を生む。付属の接着剤がガラスのアンプルなのだ。これを首のところから付属のハート型カッターで傷を付けて割る。そんな繊細な作業が小学生にできうる筈もなく、ガラス管本体がピシッと冷たい音を立てて割れると同時に、中身の液体接着剤が一気にタッとこぼれ落ちた。なにしろこの接着剤は粘性の低いラッカーシンナーそのもののシャビシャビな液体だった。途端に畳から立ち昇るツンと鼻をつく刺激臭。「だから新聞紙を敷いてやりなさいよって言ったでしょ!」ボクの予知能力が母の激昂する姿を脳裏に映し出す。あたふたする猶予さえ与えてくれなかったこのプラモデルをボクは呪った。お前なんか天野屋の土間で近所の悪童どもに踏み付けられて土に還ってしまえ。あ、プラスチックだから駄目か(それは後付けの表現である)...と、いっとき吠えて、粘性の低い液体であったが為に畳の痕跡もあとかた消えてしまったことに安堵し、それからやおら接着剤をいかに入手すべきかを思案した。結果としては待ち針を刺すことで口を塞いで、後生大事にとっておいた使い残しの接着剤チューブが、ボクを窮地から救ってくれたのだった。
 さて10円ものお得感にほくほくだったボクの勝ち誇った気分は、接着剤気密漏洩事件で地にまみれた。しかし「生来のプラモデル好き」その一点でのみ奇跡の復活を見せる。キットの組み立てはいとも簡単であった。なにしろおたまじゃくしのような胴体は一体成型である。ローターと車輪を付ければもう完成であった。そしてその塩梅のよろしくないことたるや...なんとも無骨であった。三共のピーナツシリーズも今にして思えば如何ほどのこともなかったのだが、それに輪をかけて哀しい出来映えだった。だってローターがところてん押し出す木箱みたいぢゃん...尾輪さえ無いぢゃん(註:「ぢゃん」は横浜の方言である。よって正確にはこの当時、ボクはそうした言葉遣いをしていない)...その実態を見てしまったボクは、10円のバーゲンが如何に深刻な事態を招いてしまったかを知る。安かろう悪かろう、の損得勘定における摂理をこの時ボクは学んだのだ。そして世の中はそれほどには甘くないし優しくもないと。ただマルサンの名誉の為に付け加えておけば、このマッチ箱シリーズ1/600B-47ストラトジェットは中々に素晴らしい。三共のピーナツシリーズに対抗したと思われるマッチ箱シリーズは、国産プラモデルの開祖たるマルサンのプライドとは裏腹に、さしたる成功は納めなかったようだ。だが、かつてはどこの家庭にもあったマッチ箱への親しみにおいて記憶されている。
 今や世界的な嫌煙運動のただ中であり、また家電品の多くが自動点火方式を採用する時代ゆえ、日常における「火種」は必要とされなくなった。それがマッチを絶滅危惧種へと追いやった最大の要因だろう。だが'60年代はそうではなかった。何をするにもマッチは必需品だった。「家庭用徳用マッチ」という大箱があったことからもそれが知れよう。やはり絶滅寸前である喫茶店でも店の名刺代わりに店名入りマッチをサービスした時代だ。それは全国共通であり、ゆえにマッチのコレクターも多かった。マッチはどこの家庭にも当たり前にあった。日常の生活用品の中で最も馴染みのあるのがマッチであった。またマッチ箱には「最も小さい」ことの同意語としての意味合いもあった。その庶民との密接で親しみあるイメージを、キャラクターとして採り込んだことこそがマルサン、マッチ箱シリーズの神髄であった。最も小さなプラモデルであることを示すマッチ箱シリーズの名称。そしてそれを強調した遊び心の表れがマッチ箱を模したパッケージ。アイディアとしては洒落ていた。テレビの西部劇に感化され、怒られながらも卓袱台の上や靴の踵でマッチの火を擦ろうとしたあの頃。使い捨てだったマッチを象徴するように、ボクたちも20円のプラモデルをぞんざいに扱っては使い捨てていたような気がする。10円を大金のように感じていたにも関わらず、あの頃のボクたちには物の有り難味や大切さが本当には分かっていなかったように思えてならない。子供は残酷な生き物だと言われるが、あの頃の子供たちはその上に粗暴な一面もあった。子供は天使だなんて嘘だ。

昭和のプラモ歳時記「プラモ小僧走る―回想―」其の15

 改めて振り返ってみれば、当時の暮らしは現代とは随分と違っていた。いわゆる和風な暮らしが家庭の中だけに限らず、社会環境全体に色濃く残されていたように思う。朝のしじまを破って一日の始まりを告げるのは納豆売りの声、西日が傾き薄暮が迫る頃には豆腐屋の喇叭が鳴り渡る。エアコンも床暖熱もなく人々は四季と共に一年を暮らした。食卓にのぼるのも「旬のもの」で、温室栽培も養殖もなく、人々は四季折々の食べ物を楽しみとして暮らした。子供目線で見ればアイスクリーム(これは贅沢品でアイスキャンデーが多かった)は夏限定の食べ物で、店頭にアイスストッカーが出始めると夏間近であることを感じてわくわくした。スイカと麦茶も盛夏到来の代名詞だったが、ボクの家では夏の終わりに150円くらいの叩き売りにならないと、なかなかスイカは食べられなかった。ラーメンは街の食堂で食べるもので、それでもラーメンが食べたくて母にしつこく強請ると、ラーメンの乾麺とコンソメブイヨンで作ってくれたことを懐かしく思い出す。出前は親戚などのお客人が来ないと食べられず、夏ならもり蕎麦、冬なら鍋焼きうどんと決まっていた。最も憧れたのはソフトクリームで、これは東京の日本橋や銀座などの繁華街でなくては見ることも叶わなかった。だから東京のデパートへ出かけた思い出の風景の中には、必ず「日世のソフトクリーム」の看板が記憶されている。ソフトクリームはホットケーキと並んで「東京でしか食べられない特別なご馳走」であった。
 そんな時代のボクたちは日常的に何を食べていたろう。ただ'60年代は食材ばかりかそれに伴い日本人の日常生活さえも変革しようとする時代であったから、そろそろバラエティに富んだ食生活は始まっていた。電気冷蔵庫がやって来て「ワタナベのジュースの素」で作ったジュースはキュービックアイスで冷たく飲むことが出来るようになった。電気炊飯器のおかげで夕飯にはほっかほかのご飯が食べられるようになり、お櫃の出番は極端に減った。初めてインスタントラーメンを買って、どんぶりに熱湯を注いで待った時の興奮は今も忘れられない。インスタントという言葉が未来へと続く掛け橋のようであり、その言語の響きには呪文にも似た陶酔感があった。オマケ欲しさながらもコーンフレークスを食べ始めたのもこの頃だったろう。
 ボクが最も明瞭に記憶しているのは朝の風景だ。父は既にフロントフェンダにカンガルーのマスコットの付いた自転車で出勤したあとで、朝食を食べるのはボクひとりだった。しょっちゅう食べていたのが「マルちゃんのたぬきそば」で、当時のボクには袋入りインスタント麺(カップ麺など存在していなかったが...)の傑作に思えた。とにかく旨いと思った。そしてどんぶりを啜るボクの背後では、ラジオから流れる「あゝ上野駅(井沢八郎)」...当時の庶民の朝はラジオ(FMではなくAMだ)と相場が決まっていたが、あゝ上野駅は確か今月の唄とかでひと月というもの毎朝聞かされた。他の今月の唄は全く覚えていないのだが、「♪どこかに故郷の~」の旋律と共にボクはマルちゃんのたぬきそばを必ず連想してしまう。
 あったかご飯に鯛でんぶはご馳走だったが、ふりかけが出回るようになると魚などのおかずが苦手な子供たちは、ふりかけに満腹中枢を依存するようになる。シール欲しさにエイトマンふりかけを強請ったりしたが、ふりかけそのものも「のりたま」は一番人気だったように思う。
 子供の日々の暮らしはやはり学校が中心である。そうなれば給食を語らぬ訳にはいくまい。給食の献立や形態でその人の歳が分かるというが、ボクの場合は思いっきりの「脱脂粉乳世代」である。アルマイトのボールから粉臭い匂いを発散する脱脂粉乳はおおむねどの子供も嫌いだった。未だボクたちの世代には貧富の差が極端にあったのだが、おかわりしてボール二杯も飲むような奴は決まっていて、誰もそれを冷やかしたり嘲ったりはしなかった。中学生になってテトラパックの牛乳が出るようになるまで、ボクたちの多くは片手で鼻を摘んで一気に飲み干した。コッペパンと先割れスプーンには辟易としたが、時たまメニューが甘い揚げパンと知るや、昼時のあちこちのクラスから歓声があがった。だが給食の最大の難問は学校を休んだ日に近所の友だちによって自宅へと運ばれてくるコッペパンであった。無造作にわら半紙に包まれたパサパサなコッペパン...菓子屋でありパン屋でもあるイエの倅であるボクとしては、複雑な気持ちであると共にその処理には大いに苦慮した。勿体無いから食べなさい、と母に言い含められるほどに、その味気ないザラついた食感がボクを責め苛んだ...。
 牛乳もヨーグルトもガラス瓶入りで、勝手口に備えられた木箱に日々配達される。買ってはもらえぬコーヒー牛乳やフルーツ牛乳は憧れであったが、パンピーオレンジやファンタを初めて飲んだ時の感動は「○×のIT革命やあ~」などというものの比ではなかった。現在のようにスーパーやコンビニに星の数ほどもソフトドリンクが並ぶ時代とは違って、ボクたちは甘い飲み物に飢えていた。なにしろ乾物屋の棚にオレンジやパインの缶ジュースがちらほら並ぶくらいが関の山で、あとは学校の門近くで商う駄菓子屋や文具店のラムネくらいがボクたちに手の届く飲み物の全てであった。だからお中元にカルピスなどいただいたひには、ましてやフルーツカルピスの詰め合わせだったりしたひには、その夏は毎日がお祭りであった。そして、少しでも濃くして飲みたいボクと、少しでも薄くして飲ませたい母とのせめぎあいが連日繰り広げられることとなる。また友人の家で出されたカルピスの濃いか薄いかの希釈の度合いが、その家の生活レベルを推量するバロメーターとなったり、良いおかあさんか、そうでもないおかあさんかの判断基準となるなど、カルピスは悪童たちにとっては大真面目なリトマス試験紙ともなった。何とも呆れるやら笑えるやらだが、当時の子供たちにとってカルピスの濃度とは現実社会に生きる上での切実な問題であった。

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プロフィール

平野克己(ひらの・かつみ)

MC誌の最前線を長うお准将に託し現在はフリーランスの予備役として活動中。湘南鎌倉で猫的スローライフを提唱しつつ、国産プラモデル史の編纂に尽力する日々を送る。永年飼ったコブラ427S/Cを手放しMC(Motorcycle…Modelcarsではありませぬ)復帰を密かに目論む。自称昭和プラモ小僧の60歳。座右の銘は心情溢るゝ軽薄さ。

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