趣味の総合サイト ホビダス
 

2011年7月アーカイブ

昭和のプラモ歳時記「プラモ小僧走る―回想―」其の19

 桜並木の下をボクは走っていた。手には本日の戦利品を誇らし気に握っている。たった今、天野屋で買ってきたばかりのプラモデルだ。ずっと欲しくて欲しくてたまらなかったにしきやの戦艦大和である。ただこの大和はちょっとした問題を抱えていた。三日目の今日には買えるはずのない35円の売価であったのだ。では本来手元にないはずの5円をどこから調達したか。実は福屋の売り上げ金からちょろまかしたのだ。これは立派な犯罪である。不正な使い込みである。横領である。100円や500円の札はレジスターに納められていたが、小銭の硬貨はブリキの空き缶に入れられていて、母の目を盗んでこっそり持ち出してきたのだ。商いにおいて店の売り上げ金に手をつけることは御法度と厳しく戒められてきた。ボクは模範的モラリストであったから(嘘である)、これまで御禁制を破ったことなど一度もなかった。だが欲しくてたまらぬ大和が35円と知った時、ボクは悪魔に魂を売り渡したのだった。人間は何日水を摂取しないと死ぬというようなことを何かで聞いたが、ボクの場合は三日プラモデルに触れないと死ぬ。もちろん嘘である。だが、とても四日間は我慢できそうにもなかった。そこで一計を案じた。
 当時はたいていそうだったが、天野屋でも売価は箱の裏側に鉛筆で書き込まれていた。物流の確立していなかった時代なので全国一律に定価が決まっていた訳ではなく、それゆえパッケージに定価は印字されていなかったからだ。地域によって、小売店ごとに輸送費などを含めた希望小売価格を勝手に決める。もちろん30円のものを300円などと法外な価格にする訳ではない。商いは信用第一なのである。ともかく天野屋ではにしきやの戦艦大和が35円で売られていた訳である。くすねた5円によりボクは思いを遂げた。だが、その日に限って母の検閲があった。買ったものを帰ったら見せろと言う。ボクの挙動に何か不審さを感じたのかもしれなかった。焦った。そのチェックをどうして潜り抜けるか。すでに閃いていたボクには勝算があった。それを世間では悪知恵というが、ボクにとっては成功必至の妙案である。いつもなら喜び勇んで店先からあがり母へ報告すべく直行するのだが、この日は裏木戸から庭を抜け自分の部屋へと足音を忍ばせて帰った。そして、やおら筆箱から消しゴムを取り出すと、大和の箱に書かれた35.ーの文字を消す。この時ばかりは天野屋のおばさんの鉛筆書きに感謝した。次に自分で30.ーと書き直す。完全犯罪成立の瞬間である。だが、しかし...バレた。しかも一瞬にして。30.ーの文字がいかにも子供の字だったのだ。その上、30.ーの文字の下にはくっきりと35.ーの痕跡が残っていた。天野屋のおばさんの筆圧は強く、パッケージの表面に凹みとなってはっきりとしるされていたのである。悪知恵というよりは浅知恵であった。このあと、こっぴどく叱られたのは言うまでもない。
 母方の祖母がやって来た。お小遣いだと500円札を一枚くれた。この蒼いお札は滅多に拝むことのできない高額紙幣であった。もう後先など考えられない。今すぐプラモデルを買いに走りたかった。しかも天野屋ではなく、その先の橋を渡った向こうに新たにできた模型屋に。なにしろ500円だ。普段は決して手の届かない高額、高級キットへの招待状なのだ。もはや完全に冷静さを失ったボクは空にも昇らんばかりに舞い上がっていた。天野屋には目もくれず桜並木の下を全力疾走、木橋をダッダッダッと派手な音を立てて走り抜ける。それはボクの心臓の鼓動だったろうか。
 普段は決して買うことなど叶わぬキットをボクは買った。日本ホビー1/36スターリン戦車だ。キャタピラ(キャタピラー社の登録商標だが、当時は誰もが戦車の履帯をそう呼んだ)で走る大型戦車プラモはずっと憧れだったのだ。スターリン戦車は300円。当然モーターも電池も買える。TKKマブチ35モーターが90円、単2乾電池が2本で50円、願いましては440円である。何という買い物上手! ひとり悦にいったボクは嬉々として帰った。だが、そこに待っていたのは「だからいっぺんに使っちゃうんじゃない、って言ったでしょっ!」と激昂する鬼の形相の母であった。怒れる親と台風はじっと過ぎ去るのを待つに限る。まさに台風一過の晴天は翌日にはやって来た。黒いゴムではない銀色のキャタピラ。ボクはこれにずっと憧れていた。しかもモーターも電池もある。こんな贅沢はしたことがなかった。走るプラモデルが我が手に。ボクは思った。人生最良の日だと。ちっちゃい人生である。しかし、当時の子供にとってプラモデルにモーターを付けるのは、かくも厳しく困難なことであったのだ。思えば三和のアルファロメオGPレーサー(フロントエンジンのティーポ158だったかと思う)をようやく手に入れた時も、これはもうモーターで走らすしかないと母に必死の懇願をしたのであった。家事と店番で忙しく動き回る母に食らい付くこと二時間余り、普通ドラマなどでも根負けするのは親のはずだが、この時息絶えたのはボクのほうであった...。そしてボクのアルファロメオGPマシーンは土偶と化した。冷静に考えれば全財産の150円をキットに費やし、更にTKKマブチ02モーターの100円を親からせしめようなどと企てたボクの目論みが甘かった。物も金も乏しい時代、世間は子供にも容赦なかったのだ。
 かくして動くプラモデルを遂に我がものとしたボクは、緊張と興奮に震える指先でスイッチを入れる。ジャーッというがさつな金属音を立ててボクのスターリン戦車は進む。座布団の丘陵も少年雑誌の掩蔽壕もものともせずにボクのスターリン戦車は進む。得も言われぬ感動だった。ただ走るというその一点だけでも心が踊ったが、初めて目の当たりにする戦車の走破能力の凄まじさに目を見張った。凄い。走る戦車は凄い。それからというもの、日がな一日ボクは飽くことなくスターリン戦車で遊び続けた。リモコンでもラジコンでもなくただ前行進するだけである。現代の子供たちではあり得ない安上がりな子供であった。しかしボクにとってはこれ以上に至福の時間もまたなかった。

昭和のプラモ歳時記「プラモ小僧走る―回想―」其の18

 昭和30年代は未だ古き日本の伝統風景が残されていた時代だ。街はコンクリートやアスファルトで覆われてはおらず、木と土と樹木と風で充ちていた。それはとりもなおさず自然と折り合いをつけて生きていたということだ。木造家屋はいずれも二階建てどまりで、高層ビルやタワーマンションなどなかったから空は大きく広く近かった。桜並木を見上げては、その先に拡がる青い空をいつも仰ぎ見て暮らしていた気がする。だから今でもビルの谷間を歩いていると息が詰まる。遠く小さく切り取られたような空を見上げては訳もなく不安になる。あの頃、ボクたちは確かに「太陽と青空の子供」だった。それだけはあの時代が懐かしい。
 一面見渡す限りの畑があり、どこまでも続く水田があった。草原と見紛うような広大な野原も、鬱蒼とした雑木林も、自然のまま手付かずの小高い里山もあった。ボクたちはそうした所を通って学校へ通い、日々遊び回った。雑木林の中で見知らぬ浮浪者に出くわし血相変えて逃げ惑ったり、おたまじゃくしの死骸が敷き詰められたように累々と拡がる干上がった水田に呆然としたり、辺り一面で無数に蠢くガマ蛙に驚愕したり、ライギョをウナギと信じ陽の沈むまで釣り糸を垂れたり、身近な自然はボクたちに様々なことを体験させてくれる校外学習の場だった。そうした小さな自然の驚異の中では、現代の都会暮しでは感じられぬ八百万の神や物の怪への畏怖や畏敬の念も芽生えた。ボクたちの時代にはかまいたちだの神隠しなどという迷信が日常的に会話にのぼった。暗闇には超自然な力が潜んでいると本気で信じた。だから遠出してうっかり陽が沈んでしまうと、帰り道には沢山の妖怪変化が待ち受けていた。なにしろ闇は無数にあった。見知らぬ家の門柱の影さえ恐ろしかった。
 現代社会は眠らない。コンビニは24時間煌々と明りを灯して、街頭が寝静まるなどということもない。街はまるで不夜城だ。だがあの頃、夜は人の営みから別の何かの営みへと姿を変える時間だった。ボクたちはしっかりと戸を立て、薄ぼんやりとした白熱球の電気の下で、牛乳配達のガラス瓶が擦れ合う朝の音をじっと待った。そうした夜のしじまの中でボクはいくつかのプラモデルに巡り会った。それは天野屋で買ったのでなく、夕刻郵便ポストに投函されていた茶封筒入りのものだった。通信販売で買ったものである。ボクはプラモデルをそうした通販でいくつか買った。少年雑誌の編集部が代行して販売していたもので、送料を含めた代金分の郵便切手を同封して注文する。別に割安な訳ではない。天野屋になければ雑誌通販に頼るくらいしか当時のボクには知恵がなかった。初めてそうして買ったのは多分、三和マメプラシリーズのX-15だろう。定型の茶封筒にパッキンもなくそのまま入れられていたパッケージは見事に潰れて歪んでいたが、それでも封を開けた時の興奮は天にも昇らんばかりのものだった。だが、通販で最も鮮烈な思い出となって残っているのは日本模型1/15ホンダスーパーカブだ。これは100円したからボクとしてはかなり思い切った出費であった。一日10円を送料分まで含めて貯えたのか、それとも祖母から臨時収入を得たものなのか、おそらくはそのどちらかしかあり得ないのだが、既に今のボクにはそれが思い出せない。ともかくざら紙ページの粗悪な完成写真に惹かれ申し込んでから、一日千秋の思いで待っていたのだ。しわくちゃになった茶封筒を開けると、ちょっと潰れかけた白い箱。左すみの赤いNichimoのペナントマークが目にも鮮やかだ。実車の写真にキットへの期待がいや増す。なにしろ実物は見たことがない。自転車にエンジンを着けた(原付、原動機付き自転車のいわれはここにある)、やたらバタバタとうるさい原付は何度か通りで見かけたが、こんな洒落たオートバイはこの辺りには走っていなかった。飛行機や戦車は当然だったが、自動車やオートバイでさえプラモデルでしか知らないモノが沢山あった。自転車でさえ一家の財産であった時代だ。ましてやオートバイなど、そうそうどこにもあるような乗り物ではなかった。ボクの生活圏でエンジンの着いている乗り物といえば、大通りを走る路線バス、駅前営業所に停まる日通のトラック、ウチに配達に来る菓子問屋のミゼット、友だちのお父さんのラビット、町内の内科医院のオースチン(ケンブリッジ)、そしてお隣りのスズライト・フロンテくらいなものであった。自身の生活に密着していなかっただけに余り実感が湧かず、自動車もオートバイもプラモデルの世界だけの存在のような気さえしていた。
 ガラスシェードのついた白熱電灯のもと、抑えられない高揚感と共に蓋を開ける。そこには想像を超えた感動が詰まっていた。車体はブルー、ホイールはシルバー、サドルシートは海老茶でモールドされ、レッグシールドやサイドカバーにはアイボリーの塗装さえ施されている。その上、ウインカーレンズは透明オレンジで成型された別パーツが入っていた。なんと贅沢なプラモデルであることか。開いても開いてもクルリンと丸まってしまう巻き物のような組立説明書を見ると、細かなパーツも沢山あった。これまで数えればパーツが両手の指で足りてしまうキットばかりを作ってきたボクにとって、ニチモのカブは初めての「超精密モデルキット」であった。「早く歯磨いて寝なさいよ」の母の声を上の空で聞きながら、ボクは箱の中身を食い入るように見つめ続けた。とてもいきなり手をつけられるとは思えなかった。これは心せねばならない...子供心にもそう思った。黄色い明りに包まれて夜は音もなく時を刻んでいた。

昭和のプラモ歳時記「プラモ小僧走る―回想―」其の17

 ボクは中学生になるまで自転車を買ってもらえなかった。いや厳密に言えば小学校低学年の時に一度買ってもらった。だが、それは国鉄の葡萄色のようなペンキでリペイントされた、ひどくボロい中古自転車だった。アルミフレームのママチャリが数千円で買えてしまうような現代とは違って自転車はとても高価だったので、子供がおいそれと自転車を買ってもらえるような時代ではなかった。そしてフラフラとまともに乗れないうちに家の前のドブ川に落ちた。ドブ川といっても側溝のような可愛いものではなく、並木道から水面までは2m以上もあろうかという、落ちたら大人でも簡単には土手を這い上がって来れないようなちょっとした河川であった。なので、それに恐れをなしてボクは二度と自転車を欲しがることもなく、どこに行くにも何をするにも自分の足で走り回った。ボクがいつも走る桜並木はこのドブ川に沿って流れていて、日々の中で川面と木橋は当たり前の風景だった。だが郷愁のふる里のような光景を想像するのは間違いだ。ドブ川の土手はコンクリートブロックで固められ、そこをしょっちゅう猫ほどにも巨大なドブネズミが疾駆していた。流れる水も生活廃水にまみれて臭く汚かった。そのドブ川が毎年必ず台風が来ると氾濫した。ひどい時は腰の高さまで増水し数日間もひかない。並木道を筏が通るのさえ見たことがある。テレビや箪笥などを一階には置かないのが生活の知恵だったが、冷蔵庫や洗濯機はそういう訳にもいかず、その都度、木箱やテーブルでかさ上げしなくてはならなかった。どうしてそんな所に何年も暮らしたのかとも思うが、当時の人たちは与えられた環境に順応する我慢強さには長けていたようにも思える。それに何よりも満開の桜は美しかった。ボクが今も桜の季節を愛してやまないのは、この桜並木の下に暮らしたからかもしれない。
 いずれにしても例えそのドブ川がなくても街は汚かった。鋪装された道はバス通りまで行かなくてはなかったし、砂利道の端はいつも雑草の下生えで鬱蒼としていた。そこに辺り構わず親爺や野良犬が小便をする。天秤棒で肥樽を運ぶ「おわい屋(ボクたちはそう呼んでいた)」がそこいらじゅうにぽったぽったと落としていく。その肥樽を積んだ大八車を牛がひいていく(冗談のようだが本当の話だ) 牛の糞は大きくてぐちゃぐちゃだった。雨上がりにはぬかるみ、夏には白く土埃が舞い立ち、冬の朝には霜柱が立った。いつも埃っぽくでこぼこだった。だから潔癖性の子供でなくても道の端など決して歩かなかった。ましてや昨今のように平気で道ばたに座ったり寝転がったりするようなことなぞ考えられず、居るとしたら乞食(これも現在では禁止用語だろう)か野良猫くらいのものだった。
 桜並木の商店街とはいえ、あちこちに空き地が虫食いのように点在していた。バラ線で囲った地所もあったが、人為的な痕跡もなく放置されたような土地も多く、ボクたちはそうした空き地から空き地へと走り回って遊んだ。三角ベース、戦争ごっこ、缶蹴り、鬼ごっこ...たわいの無い遊びで日が暮れるまで時間を忘れた。そんな空き地のひとつで事件が起こった。秋だったろうか。雨上がりのうっすらと日ざしが覗く午後、その空き地には子供用ビニールプールほどの水たまりがいくつもできていた。枯れた葦だか薄だかが群生する水たまりで、全裸の女の子が水浴びでもするかのようにひとりではしゃぎ回っていた。それが同じクラスではないが同級生の少女だと気付き、眼前の光景の不可解さは一層増した。その白い双臀は艶かしく、唖然として立ち竦むボクの中に人生で初めて性の衝動が覚醒した。あの時、ボクは確かに「女性の全裸体」を見ていた。それまで初恋の孝子ちゃんの白いパンツが愛くるしいとは感じても、その下の裸体にまでは思いが及ばなかった。見てはいけないものを見てしまった罪悪感と、もっと子細に見たい願望がないまぜとなり、異次元へと迷い込んでしまった気分に動揺した。しかし、直後にバスタオルを抱えた母親が駆け付けたことで、事態はあっさり収拾がついた。泥水だらけの娘を抱いた母親は、桜並木の外れにある銭湯に飛び込むことで平凡な日常生活を取り戻したのだ。しかし、あれは何だったのだろう。あのコは知的障害(現在では知恵遅れという表現は差別用語だが、当時は誰もがそう呼んだ)でもなく、また怒りや悲しみにまかせた行動でもなかったと思う。あの時、確かに全裸の少女は笑顔だった。子供は何をしでかすか分からない、とは良く言うが、子供のボクでも分からない子供の言動は確かにあった。ただ、この女の子の場合は水たまりだったので未だ幸せなほうだ。当時の子供たちは畑を走り回って肥溜めに落ちては、慌てて銭湯に駆け込むケースが決して少なくなかったのだから。

  • 1

プロフィール

平野克己(ひらの・かつみ)

MC誌の最前線を長うお准将に託し現在はフリーランスの予備役として活動中。湘南鎌倉で猫的スローライフを提唱しつつ、国産プラモデル史の編纂に尽力する日々を送る。永年飼ったコブラ427S/Cを手放しMC(Motorcycle…Modelcarsではありませぬ)復帰を密かに目論む。自称昭和プラモ小僧の60歳。座右の銘は心情溢るゝ軽薄さ。

2014年10月

      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

アーカイブ

 

趣味の総合出版社 ネコ・パブリッシング
Copyright © 2005-2013 NEKO PUBLISHING CO.,LTD. All right reserved.