趣味の総合サイト ホビダス
 

2011年8月アーカイブ

昭和のプラモ歳時記0「プラモ小僧走る―回想―」其の22

 月刊少年誌を愛読するようになったのが一体いくつの時だったかは、もはや確かな記憶もない。おそらくは幼稚園の年長の頃ではなかったか。毎月の月初めになると書店の平台にズラリと並べられたその光景は圧巻だった。なにしろ種類が多かったのだ。少年、少年画報、少年ブック、冒険王、日の丸、ぼくらなどが互いに覇を競っていた。いずれも付録のペーパークラフト(これが最も楽しみである第一付録)と別冊(連載マンガが本誌と別冊に分冊されていた)数冊が挟まって、あたかも「子持ちししゃも」のように脹らんだ本誌は、紙紐で十文字に縛られていた。この脹らみ具合こそが「今月は何を選ぶか」の判断基準ともなっていた。当初は愛読誌を決めておらず、付録の優劣で決めていたようなところがあった。特にペーパークラフトは思い出深い。零戦52型と飛燕を作った記憶は鮮明だが、カウリングや機首の丸みは切り込みを入れて大和糊で繋いでゆくので、スムースな曲面には到底ならない。手抜きのCG映像のようにカクカクとした形状である。プロペラや車輪のシャフトにマッチ棒を使うように指示されていたことも良く覚えている。とにもかくにも完成させるのはとても難しかった。だが、できあがると大きくて立派であった。記憶の中では1/24スケールほどもあったかに思うが、当時の少年雑誌の付録は本誌以上の版型の紙シートを使えぬ規制があったはずなので、おそらくそんなに大きなモノではなかったろう。「こんなに小さかったかなあ、こんなに狭かったのか」などと、子供時分の記憶を訂正せねばならないことは良くあることだ。自分が小さかったのである。子供とは世の中を大きく広く感じて生きている。
 少年雑誌の付録模型もこの頃には近代化が始まり、戦艦三笠や国会議事堂などに代表される戦前からの流れである本格的な大型ペーパークラフトから、次第により小型でアイディア先行の「遊べる玩具」へと性格も様式も変化していくようになる。ハンドルを回すと銃身がグルグル回転し(たか...?)、ゴムで円盤型の弾を発射するガトリング銃などはそうした新しい部類のペーパークラフトであった。ただ、そうした傾向を強めるにつけ、ボクの第一付録への情熱は次第に冷めていった。そして、それに替わったのが連載マンガへの傾倒であった。次第に贔屓のマンガを重視するようになると、必然的に愛読誌も固定化するようになる。ボクの場合は「少年ブック」であった。それでも毎月欠かさず買える訳でもなかったので、毎月「少年(だったと思う...)を買っているSくんには強請ってみせてもらった。そして、そこで強烈な印象となって残ったのが、連載マンガでも冒頭特集でもなく、毎号のように掲載されていた三和模型の広告だった。贅沢にもカラーであった三和模型の広告には常にMG-TD、ジャガーXK-120、フェラーリ340アメリカ、(トライアンフTR-3Aはあとから発売されたものなのか記憶がない)のボックスアートが掲載されていた。俯瞰から見た疾走するMGは例えようもなくカッコ良かった。なにしろ外国製スポーツカーなぞ生まれてこのかた見たこともなかった。モーターで走る海の向こうのスポーツカーのプラモデル。毎月毎月、眺めてはため息をついた。そのときボクは未だ見ぬプラモデルに恋していたかもしれなかった。もちろん今にしてみれば大したキットではない。おそらく米レベル1/32モデルをコピーしたものだが、本家のキットに較べるとかなり無骨な内容にアレンジされてしまっている。そんなキットでも当時のボクは恋して恋して恋い焦がれていた。その広告ページには外国の香りがした。ちょっとばかり怪し気な和風テイストであったが、それゆえに地方の小学生に過ぎないボクにもストレートにアピールしたのだろう。リア・ディゾンみたいなものか...。
 1959年/昭和34年には少年マガジンと少年サンデーが相次いで創刊され、以後少年雑誌は月刊から週刊の時代へと突入していくのだが、ボクは1965年/昭和40年頃までは月刊誌を愛読していた。その頃はスピードくじが流行っていて、ページ下のくじを開けるとその場で当たりはずれが分かった。これにはその都度、心臓が爆発しそうに興奮するのだが、現実はいつも「はずれ」の三文字が空しく印刷されていてひどく落胆した。当るとコグレ1/24のロータスだのフェラーリのスロットカーキットがもらえるのである。その賞品の写真を食い入るように見つめては、これを手にする奴は日本のどこに居るのだろうか、と寂しく羨望の思いを募らせた。「そんなに世の中、ぼた餅みたいな幸運は転がってはいないのだな」と痛感しては憔悴するボクではあった。なので、またぞろボクの関心は誌上通信販売へと向くこととなる。これなら強運か否かなどとは無縁だ。幸運を手繰り寄せる特別な能力なぞ必要としない。ただ地道に真面目に生きてさえいれば良い。小学生ながらボクはそうした境地に達していた。小さな子供である。これでは大きな大人になぞ成りうるはずもない。子供が夢と希望に瞳をキラキラさせる生き物だ、などというのは大人の創った絵空事だ。大嘘である。
 しかしてボクにとっての誌上通販も「何でもかんでも」欲しかった時代は過ぎ、ドットの浮き出た粗い写真であっても完成品でキットの善し悪しが判断できるようになっていた。このパンサー戦車カッコ悪いぢゃん、このセドリックはけっこう本物っぽいな、などと品定めする知恵だけはついた。更には緑商会(実名ご免)ぢゃなあ~などと、ブランドで良否の判定さえする訳知り顔で嫌味な子供となった。既にプラモデルに対しては小学生にして老成してしまったボクの行き着く先は、友だちから「プラモ博士」と呼ばれる哀しい末路だけが待っていた。もしもこんな子供がボクの息子だったら...。想像するだに嫌だ。ボクの父は自分の息子について、息子の遊びについて全くと言って良いほどに興味も関心も示さぬ人であったが、それだからこそボクは無事に現在まで生き抜いてこられたのかもしれない。それは父に感謝することなのか。いや、そうではあるまい...。

 ボクは学校が嫌いな子供だった。既に記したようにいつも異邦人のように扱われ、時には学年に必ずひとりはいたガキ大将にいじめに会うことさえあった。だが当時、大人はむろん、子供たちでさえ日々学校に通うことが当たり前で、それが義務とさえ考えていた節がある。引きこもりなどということは概念としても存在してはいなかった。当然、ボクも苦痛は感じつつも日々淡々と学校には通った。現在のような陰湿ないじめが継続的に続くことのなかったせいもあったが、ボクはボクなりに要領良く立ち回れる性分であったことも幸いしたのだろう。勉学一途でも生真面目一辺倒な秀才でもなく、ガリ勉タイプでもなかったボクは、それなりにクラスの信認を得てはいたのだが、ボク自身の内面ではいつも空虚な孤独感が渦巻いていた気がする。なによりもボクは集団行動というのが苦手だった。そんな「基本学校嫌い」のボクだったので、風邪や腹痛などで学校を休んだ日はむしろ憂鬱な気分から解放されて嬉しくてたまらなかった。ただ一旦休んでしまうと、休み明けにはクラス中から好奇の目に曝されるのが鬱陶しくもあって、そこは中々に微妙でもあった。
 家の近くには中学校が在った。学校を休んだ朝は、流れてくる始業時間のチャイムを聞きながら密やかな優越感に浸った。いつもは嫌いなウェストミンスターの鐘の旋律も、このときばかりはボクに何かを強いる合図ではない。今頃、みんなは「起立、礼!」などと、長い一日最初のセレモニーに勤しんでいる時分だ。でもボクはのんびりと布団の中で、台所から流れてくるラジオの歌声に耳を澄ましている。それはボクたち子供の知らない時間。大人たちだけのゆったりと怠惰な時間。そんな見知らぬ時のたゆたいに浸りながら、別世界を垣間見る好奇心で胸が高鳴った。平穏で静かな時が流れていた。ラジオからは流行歌のメロディー、台所から洩れてくる陶器のぶつかり合う音、そして時たま風に乗って届く電気カンナやトンカチの響き。それはボクの知らない日々のざわめき。街がたてる日常の息遣いだった。そんな路地裏の囁きに耳をそばだてながら、母の目を盗んでは枕の上の戦場で熾烈な戦車戦を繰り広げた。主役は三和マイクロタンクのM-48パットンだ。後方支援はM-56が受け持っている。敵側を演ずるのはM-47とM-59。兵員輸送車のハッチが開いて歩兵がバラバラと展開してゆく(そこのところは妄想である) やはり敵前に上陸するためには水陸両用車が欲しいところだな...次はこのシリーズのMK-4(LVT4のこと)を買おう! もうその頃には朝方の腹痛などすっかり忘れてしまっているボクだった。学校を休んだ日の正午前、時の流れは穏やかで優しい。
 学校を休んでしまった日はどこへも出られない。学年が違うのでボクが休んだことを知らない親友のシゲちゃんが「かっちゃーん、あそぼーっ」の声と共にやって来ても門前払いされてしまう。プラモは買えずともひとりこそっと天野屋に偵察に行きたいと願っても、厳戒体制の検問を突破するのは不可能にも等しい。こんな日は庭から望む四角く小さく切り取られた空が暮れなずんでゆくさまを、ひとりぽつねんと眺めた。やがて畳の上に夕暮れがひっそりと忍び寄る頃、忘れられたM-47が小さなシルエットとなってボクにそっと寄り添ってくれるのだった。プラモデルは子供には優しい。明日は元気に学校に行こう。でなくては天野屋に行かれもしないし。
 数年後、ボクはROCOの戦車たちと出逢うこととなるのだが、ロコのモデルたちと較べても余り遜色のない(子供の目にはそう映ったのである。実際にはかなりな隔たりがある...)三和のマイクロタンクシリーズは凄いキットだったのだな、と改めて見直し感心した。マイクロタンクがどうやらロコのコピーであるのに気付いたのは、それからまた20年ほども経ってからのことである。なんとも間抜けな話だが、情報のない当時の子供にはそんなことなぞ分かるはずもなかった。

昭和のプラモ歳時記「プラモ小僧走る―回想―」其の20

 ボクが自我に目覚めた、つまり日々の暮らしを自覚した最初の記憶は東京の桜上水だ。だからボクのルーツと言っていいのかもしれないが、余りに幼すぎてさしたる記憶がない。ただ近所の友だちの家に遊びに行くと、ボクがひとつも持っていないような大きなブリキの自動車や飛行機があって、幼児でありながら既に社会格差を感じ卑屈になったことだけは覚えている。その後は目黒、石神井と移り住み、幼稚園の年長組の時に関東近県、この舞台である桜並木のある商店街へと住処を移した。
 当時は関東といえども地域格差が大きく、土地土地の方言が厳然として存在し、物言いばかりか考え方までも異なっていた。東京からやって来た、それだけでボクは珍しがられた。そこには「都会もん」という言葉で表される、羨望の裏返しのような嘲りがあった。そこにはボクのようにあちこちを転々として来た者では明らかに持ち合わせていない、その風土で生まれ育った連帯感というか絆のようなものが強く作用していたように思われる。子供社会ではそれがより鮮明で、他所ものを簡単には受け入れない土壌があった。ボクは半ズボンを履いていたが、先ずはそれがからかいの原因となった。確かに半ズボンの子供などいなかった。女の子でさえスカートなぞ履いてはいなかったのだ。いずれも坊ちゃん刈りかおかっぱ(後頭部を刈り上げたワカメちゃんのような髪型である)で、小奇麗な身なりをしていると「気取ってる」とか「金持ち」などと揶揄されてあからさまな嫌悪の対象となった。それでもボクにはボクなりのプライドがあって、床屋さんでは「しちさん」に分けてもらうのをやめなかった。理髪師のおやじさんが「ぼっちゃん、粋だねえ」と笑ったのを覚えている。未だそんな時代であった。さらにボクには兄弟がいなかった。「ひとりっ子」それだけで子供ばかりか大人たちからも珍しい生き物を見るように奇異な目で見られた。どこに行っても誰に会ってもそれが話題となった。いっとき、ひとりっ子というのは家庭的に不備があるものなのか、それとも人格的に欠陥があるものなのか、と真剣に悩みさえした。それでも不器用ながらボクはボクなりにその土地柄の気候風土、対人関係に溶け込もうと努力した。そして次第にその地域の子供となっていった。
 やはり兄弟がいないというのは孤独なものだった。家に帰れば子供はボクひとりである。近所の友だちと遊べなければひとり遊びをするしかない。追々、ひとり遊びの得意な子供になっていった。おそらくプラモデルがそれを助長したかもしれなかったし、プラモデルがそんなボクを支えてくれたのかもしれなかった。なぜあれほどにまでプラモデルにのめり込んだのだろう。今になってそんなことを考えてみる。それは寂しさを紛らすため、あるいは忘れるためだったのかもしれない。どこまでも払拭することのできない孤独感を、いっときだけでもプラモデルが癒してくれたような気がする。絶望することなくボクが無事に育ってこられたのは、おそらくはプラモデルのおかげだ。しかし、そのプラモデルがボクに世間の現実を見せつけることも時にはあった。クラスの学級委員のYくんは勉強ができてスポーツ万能でかっこ良くて、クラスの女の子の憧れの的だった。ある時、彼もプラモデルが大好きなことを知り、見せてもらう約束をした。ボクの身の丈ほどもある雑草をかき分け原っぱを抜けると彼の家はあった。立派な構えの玄関の瀟洒な建物だった。下町の商店の倅であるボクはその時点ですでに臆していたかもしれない。そして彼が手にしていたのはモノグラムのB-58ハスラー、レベルのP2V-7ネプチューン、マルサンの1/50百偵、同飛燕、疾風など、ボクが見たこともないプラモデルたちだった。取り分け外国製キットへの羨望、そしてそうしたキットを買うことのできる家庭環境に、社会的階級格差、子供の言葉でもっと簡単に言ってしまえば「人種の違い」を思い知らされた気分だった。その帰り道、初めて目の当たりにした外国製キットが遠い存在であることを思っては、また人は皆等しく平等に生きている訳ではないことを感じては、気持ちの沈み込んでいくボクだった。ただ、それでボクは拗ねたり白けたりする子供ではなかった。他人は他人、ボクはボクだ。そこの辺りの割り切りも立ち直りもまた早かった。世の中に凄いプラモデルがあることを知ってからも、三日ごとに桜並木の下を走り続けた。それがボクのプラモデル。それがボクの生きざま。寂しくても哀しくてもボクにはプラモデルがあった。天野屋が待っていた。あの薄暗い土間に立ちプラモデルの箱を吟味するときの昂揚感だけが、あの頃のボクには全てだった。世の中からドロップアウトしてしまいたい気持ちを抱えながら、それを寸でのところで押し止めていたのは小さなプラモデルたちに他ならなかった。プラモデルに支えられプラモデルに助けられたボクの小学生時代。それは今振り返っても酸味の伴う苦い記憶でしかない。楽しかったことなどひとつもない、などとは言うつもりもないが、天真爛漫に屈託なく過ごした記憶もまたない。子供は子供なりに日々苦しみながら考えながらもがきながら生きる。誰もが子供時代に戻りたがる、それは子供の心を忘れてしまった大人の戯れ言に過ぎない。

  • 1

プロフィール

平野克己(ひらの・かつみ)

MC誌の最前線を長うお准将に託し現在はフリーランスの予備役として活動中。湘南鎌倉で猫的スローライフを提唱しつつ、国産プラモデル史の編纂に尽力する日々を送る。永年飼ったコブラ427S/Cを手放しMC(Motorcycle…Modelcarsではありませぬ)復帰を密かに目論む。自称昭和プラモ小僧の60歳。座右の銘は心情溢るゝ軽薄さ。

2014年10月

      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

アーカイブ

 

趣味の総合出版社 ネコ・パブリッシング
Copyright © 2005-2013 NEKO PUBLISHING CO.,LTD. All right reserved.