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2012年3月アーカイブ

昭和のプラモ歳時記「プラモ小僧走る―回想―」其の27

 ボクが10歳の時、我が家は引っ越しをした。1963年/昭和38年のことだ。あの桜並木とも見渡す限りの畑とも里山とも、そして何よりも毎日のように通い詰めた天野屋ともお別れした訳だ。新たに移り住んだのは千葉県のとある地方都市で、新居は団地の五階だった。日本住宅公団の集合住宅、いわゆる「団地」というヤツで、父にとってはようやく抽選に当たった念願の住処であった。戦後の高度成長期、中流サラリーマン家庭にとって、モダンな暮らしができる団地は「夢のマイホーム」であった。現在でこそウォーターフロントの超高層マンションなど当たり前となったが、当時、一般庶民が二階建て以上の高さに住むというのは夢のようなことであり、ボクも五階という超高層からの展望に心躍らせた。しかし、それも初めの頃だけで、エレベーターのない当時の高層住宅は、外出と帰宅の度に五階分のコンクリ階段を上り下りせねばならず、たとえ子供であっても辛かった。ようやく辿り着く鉄扉の玄関を開ければ2LDKの我が家、家族三人でも決して広く余裕のある暮らしとは言えなかった。畳一畳が細く小さめな、俗に言う「団地サイズ」なので、まさしく兎小屋と呼ばれた戦後の暮らしがそこにはあった。それでも水洗トイレと家族風呂が完備していることで、とてつもなく文化的な生活環境を手に入れられた喜びがあった。
 以前住んでいた桜並木の商店街時代、天野屋はボクの日々の暮らしを支える存在であったのだが、次第にプラモデルが普及しはじめると、天野屋の先の橋を渡った所に新たに模型屋ができた。模型屋といっても、かつてのようにUコンやラジコン、鉄道模型などの並ぶ古いタイプの店舗ではなく、店内一杯に棚が居並び、蛍光灯で明るく照らされた、その後、ボクたちが良く知るプラモデル屋だった。ここでボクは何度かプラモデルを買ったが、それでもやはりボクの行きつけが天野屋であることは変わらなかった。そして天野屋でも30円のプラモデルは次第に姿を消し、50円、100円のキットが主流となっていった。ボクのお小遣い制度も日給制から月給制へと変わり、より高額プラモへも対応できるようになったので、ボクの興味の対象も三共1/150マッチ箱シリーズから、いつしかマルサン1/100シリーズへと変わっていった。このシリーズは単に大きいというだけでなく、ようやく本格的なプラモデルを手にしたのだという実感を与えてくれた。胴体が左右割りであったし、透明キャノピーもムクではなかった。パッケージは大判ながらも相変わらずキャラメルボックスタイプだったが、橋本喜久男氏のボックスアートイラストと、外国キット風なデザインセンスが、本格的で高級感ある雰囲気を演出しており、どうしても欲しいと思わせる説得力に充ちていた。中でもスピットファイア、P-38ライトニング、F6F-5ヘルキャット、ユンカースJu87スツーカ、震電などは記憶に焼き付いているのだが、取り分けボクのお気に入りは震電だった。エンテ翼なんて何てカッコいいのだろう、まるでジェット機のようだ...と惚れ惚れとそのスタイルに見入った。だが、その辺りが50円プラモとの付き合いの最後だったような気がする。

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プロフィール

平野克己(ひらの・かつみ)

MC誌の最前線を長うお准将に託し現在はフリーランスの予備役として活動中。湘南鎌倉で猫的スローライフを提唱しつつ、国産プラモデル史の編纂に尽力する日々を送る。永年飼ったコブラ427S/Cを手放しMC(Motorcycle…Modelcarsではありませぬ)復帰を密かに目論む。自称昭和プラモ小僧の60歳。座右の銘は心情溢るゝ軽薄さ。

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